1973年長野県戸倉町(現在の千曲市)に生まれました私は高校時代まで映画のシナリオライターを目指していました。戸倉町には戸倉上山田温泉という、一昔前には非常に栄えていた温泉街があります。私の両親が双方とも戸倉町出身であり、両親が戸倉町に帰省している最中に私は生まれたので、ほんの数年前までは住んだこともない長野県が本籍地となっていました。 |
ちなみに、戸倉上山田温泉は今ではすっかり没落し、「長野県の熱海」ともいえるまでに閑散とした温泉街になってしまいました(さびしいですね)。数年前に役場の職員さんとお酒を飲む機会があったのですが、すっかり空洞化してしまった街を嘆いておられました。
生まれは長野県であるものの育ちはずっと埼玉県。今は住民票を東京都に移してしまっていますが、常に僕のアイデンティティーは「埼玉県」にありまして、地元愛の性質が薄いといわれる埼玉県民には珍しい方かもしれません。学校は北本市みなみ幼稚園⇒北本市立西小学校⇒北本市立北本中学校と北本づくしでした。中学時代はサッカー少年でしたが、部活はサボりぐせがなかなか抜けませんでした。
小説を濫読したのはこの頃で、特に三国志には心を躍らせたものです。吉川英治の小説は何十回読んだことかわからなかったし、今でも何年かに1度は読み返してしまうほどです。原書完訳の三国志演義や陳舜臣の『秘本・三国志』にも傾倒していました。多くの戦略家参謀を抱え、自らも戦略家だった曹操孟徳という主人公の魅力に惹かれていた少年時代でした。
このころから守屋洋氏の「孫子」「呉子」「兵法三十六計」、クラウゼヴィッツ「戦争論」などをわけもわからず乱読するようになっていました。今はセミナーなどで「PR戦略論」などと勝手なことを喋らせてもらっていますが、戦略論を語るときにはこの頃貪るように読んだこういった歴史書・戦略書から影響を受けているので、ビジネス事例に当てはめて紹介をしたりすることが今でもあります。
高校は埼玉県立伊奈学園総合高等学校というやけに生徒数が多い(全校で3,000人、1学年24クラス)マンモス校に入学しました。本当は県立浦和西高校を受験したかったのですが、中学の担任が「あんたの今の成績では落ちる」といわれて安全パイの高校を受験してしまいました。後からとある裏ルートで聞いてみたところ、「浦和西高校どころかその遥か上をいく、熊谷高校ですら合格していた点数だった。なぜ浦和西受けなかった?」といわれました。
他人の「どうせ無理だよ」という言葉に惑わされて自分自身の意思で人生の選択ができず後悔をしてしまった結果になりました。今思い出しても悔しいですね。確実にこの苦い経験がその後の私の人生において大きな影響を与えました。つまり、あまり人の意見を聞かない頑固な人間になったというところでしょうか。
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