遭難の顛末
歩兵第五聯隊〔編纂〕
明治三十五年(1902年)七月
歩兵第五聯隊長 津川謙光
遭難から正に二十七年が過ぎ、世間の人々の記憶から当時のことが次第に忘れ去られようとしている。しかし、それとは裏腹に八甲田山上の雪はいよいよ深く、何事かを我々に暗示しているかのようである。本書はもともと明治三十五年の発行にかかるものであるが、現在では当時のものが現存しているのは一部に過ぎない。このまま絶版となることを憂慮し、同時にこの機会に広く世に公表して、後進の志気を鼓舞したいと考え、死者の勇魂を慰めるとともに再版の序とする。
昭和三年(1928年)十月
歩兵第五聯隊長 石井孝慈
遭難始末 目次
| 章 | 題目 | 頁 |
|---|---|---|
| 緒言 | (まえがき) | 1 |
| 第一章 | 行軍の目的・計画および実施 | 5 |
| 第二章 | 行軍の実施および遭難の状況 | 21 |
| 第三章 | 遭難当時における青森付近の気象 | 41 |
| 第四章 | 救援隊の派遣 | 44 |
| 第五章 | 捜索・救護の計画ならびに実施 | 69 |
| 第六章 | 特別業務 | 121 |
| 第七章 | 遭難者の葬祭 | 125 |
| 附録 | 遭難死亡者人名 | 223 |
緒 言
古来、戦争の勝敗は気候によって左右されることが多く、そのために軍隊が被る惨害は、戦闘による損傷に比べてさらに甚だしいことが常である。かのスウェーデン王カール十二世は精強な軍を率いてロシアに侵入したが、進退の自由を失い、ついに敗退に帰した。またナポレオン一世はエジプトの炎熱と疫病のために数万の人命を失い、蓋世の英傑も永く恨みを残した。〔ナポレオンは〕さらにロシアに侵入してカール王の轍を踏み、完全な敗滅に陥った。また聞くところによれば、新田義貞の軍は北越で厳寒のために弓矢を構えることもできず、豊臣秀吉の朝鮮出兵では兵士が凍傷で指を落とす者もあったという。
近くは明治二十七・八年戦役(日清戦争)において、遼東・山東の厳寒に凍傷患者四千余人もの多数を出し、朝鮮・台湾および内地の炎熱には日射病に倒れた患者が七百余人に及んだ。一時的に戦闘力を失った者に至っては、枚挙に暇がないほどであった。
これらの気候に対する対策を講じることは急務である。平時において、暖地の軍隊は暑熱対策を、寒地の軍隊は防寒・踏雪の方法を研究することは自然の義務であり、これによって軍事の改良進歩を図るべきである。
我が青森衛戍地は陸奥の一隅にあり、毎年十二月から四月まで積雪に閉ざされ、吹雪のために人の行動が途絶することが多い。
そもそも田代越えは、青森から三本木平野に通じる唯一の間道である。明治八年に我が聯隊がこの地に駐屯して以来、寒気が摂氏氷点下十度以下に降ることは常であり、二月頃の寒気の衛生上の影響について研究し、直接間接に軍事の進歩に貢献してきた。酸ケ湯を経て十和田湖畔に至る経路の必要性を認め、その実施を奨励した成果は著しいものがあった。
明治三十二年、大尉加藤房吉はますますその必要を認め、三十三年に第一大隊の高野付近での雪中行軍、第二大隊の小湊での行軍、三十四年に第三大隊の五本松付近での雪中行軍など、極めて有益な研究を行った。
我が聯隊にとって、この間道は兵略上最も枢要な進出路である。夏期には数回これを通過したが、未だ冬期にこの経路を踏破したことはなく、これを遺憾としてきた。昨年、第三大隊が雪中の難路を経て三本木に進出し、我が旅団の作戦を容易にする計画があったが、不時の障害のためについに果たせなかった。
しかるに不幸にして、未だかつて経験したことのない非常事態により、一隊が八甲田山麓の雪中に埋没するという偉大なる犠牲が生じた。これは恨むべき事ではあるが、ここに百余の生霊が我々に遺した真に偉大な教訓は、まさに千古不滅の事蹟として永く後世に益するところがあるであろう。
第一章 行軍の目的・計画および実施
第一 行軍の目的
行軍の目的は、戦時編成の歩兵一大隊をもって、雪中に青森から田代を経て三本木に至る一泊行軍を行い、田代街道における大小行李(荷物輸送)の特別編成を実施・検証することであった。
第二 予備行軍
〔本行軍に先立ち予備行軍が実施された。〕午前七時三十分に屯営を出発し、全隊は十時三十分に丘陵に到達した。午後二時過ぎに帰営した。行程は約二里強、所要時間は約四時間であった。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 行軍隊(全隊) | 屯営(青森)→ 幸畑方面 → 丘陵 → 屯営(往復) | 行程約二里強(≈8km)、所要約4時間。本行軍の予行として実施。この距離は本番の約1/3に過ぎず、本番の過酷さを予見するには不十分であった。 |
第三 大隊長の判断
屯営(青森)から三本木までの距離は約十三里で、夏秋の候には小部隊が一日で通過した前例が多い。しかし雪中に通過した前例はない。田代までの区間(五里)と嶺澤までの四里を含め、三日の行程に区分すれば実施可能と判断された。
しかしながら、田代間の雪中行軍の経験は不足しており、途中での露営が必要になる可能性もあり、一日で田代に到達することが困難になる事態も想定された。
第四 行軍に関する命令
大隊長は二十一日、大隊に対し以下の通り命令を発した。
一、行軍参列者を以下の通り定める。
聯隊長は二十三日より行軍に随行することとなった。大隊長は神成大尉を行軍の主任(実質的指揮者)とし、山口少佐は聯隊長期伍長をもって特別小隊を編成した。教育委員が主座(責任者)であった。
大隊長は神成大尉に中隊長としての主任を委ね、第三年度の長期計画に基づき、行軍の実施研究に専念させた。
部隊の編成
各中隊は将校、准士官および見習士官、下士以下四十名ないし四十五名で構成された(曹長以下の兵および特務給養卒、聯隊附の任務者を含む)。
部隊は四個中隊から成り、主要な幹部は以下の通りである。
| 役職 | 氏名 | 階級 |
|---|---|---|
| 中隊長 | 神成文吉 | 大尉 |
| 小隊長 | 伊藤格明 | 中尉 |
| 小隊長 | 大橋 | 中尉 |
| 小隊長 | 水野 | 中尉 |
| 外 | 中野 | 中尉 |
| 外 | 鈴木 | 少尉 |
軍医、看護長、炊事掛軍曹が各一名付けられた。小隊長は列外者(非戦闘員)と交代することもあり得るとされた。
三、二十三日午前六時三十分、第五中隊舎前に整列すべし。
服装ならびに携帯品は、一般防寒外套を着用し、藁靴を履き、略装とする。携帯品としては上等兵以下は飯盒・雑嚢および水筒を携行し、食糧として午食および糧食三食分を併せ持つこと。下士以下は飯盒・雑嚢に収容すること。
四、輪送員(輸送担当)として各小隊から特別小隊に兵卒十四名を差し出すべし。その服装は当日午前五時三十分までに各小隊の掛軍曹のもとに届け出ること。
五、以上の施行に関する細部事項はすべて神成大尉の指示を受けるべし。
第五 大隊長の与えた注意
二十二日午後、大隊長は中隊長を集めて以下の注意事項を与えた。
「今回の行軍は、現在の状況において地形上あるいは距離がやや遠い感がある。」
第六 軍医が提出した衛生上の注意
軍医は以下の衛生上の注意事項を呈出した。
一、雪中行軍は、非常の障害に遭遇しなければ目的地に到達できるものと信じる。
一、雪中行軍・露営の際は薪炭を携行すべし。途中においても十分に防寒に注意し、装備の破損がないようにすべし。できれば藁靴を予備として懐に入れておくこと。
一、三十分ごとに行軍休止時間を設けること。
一、休止の間は各兵が手指を摩擦し、特に足を可能な限り温かく包み、凍傷を防ぐこと。
一、全身を可能な限り温かく保つこと。凍傷の大きな原因となる。
一、腹部や陰部の冷えは凍傷の大きな原因となる。
一、雪中行軍や露営の際に大量に水を飲むことは凍傷を招きやすく、また睡眠中は特に注意すべきである。
一、手指・鼻・踵その他全身の諸部が赤色を呈するのは凍傷を起こしやすい兆候であるから注意すること。
一、濡れた衣服は可能な限り早く乾燥させること。
一、酒を大量に飲むことは凍傷の契機となるため、飲酒の習慣がある者も必ず酒を慎むべきこと。
研究事項の分担
各将校に以下の研究項目が分担された。出発前日に神成大尉から各将校に伝達された。
| 研究項目 | 担当者 |
|---|---|
| 一、歩兵一大隊の三本木進出における荷物運搬法の研究 | 鈴木少尉 |
| 二、全宿営の研究 | 今泉見習士官 |
| 三、全行進法の研究 | 中野中尉 |
| 四、衛兵の研究 | 伊藤中尉 |
| 五、炊事の研究 | 田中見習士官 |
| 六、携行すべき需用品の研究 | 大橋中尉 |
| 七、路上測図 | 水野中尉 |
第八 衛生上の調査予定項目
以下は永井軍医の机上より得られたもので、調査計画の一端を掲げる。
| 番号 | 調査項目 |
|---|---|
| 一 | 気象(天候・気温・風力・風向)の調査 |
| 二 | 行程および行進の難易、積雪の深さとその性状 |
| 三 | 携帯品目およびその負担量 |
| 四 | 疲労の程度と体温(発汗)の関係、口渇の度合い、体重の増減 |
| 五 | 被服と寒気・体温(発汗)の関係およびその効力の実験 |
| 六 | 耳当て・代用眼鏡の必要性の有無およびその効力の実験 |
| 七 | 銃の特別撮影法(写真記録)の考慮・実験 |
| 八 | 露営地の特別撮影法の考慮・実験 |
| 九 | 水筒の米飯の防寒携帯法および内容物の凍結実験 |
| 十 | 飲酒・飯盒・握飯等の比較実験(特に兵卒十名を要する。背嚢内に入れたものとの比較) |
| 十一 | 患者の状況 |
| 十二 | 患者運搬法 |
第七 神成大尉の計画
以下に掲載するのは、神成大尉の遺体とともに発見された原稿である。大尉の計画は大隊長の意図を受けて細部の計画を立てたものであり、そのため特に原稿のまま掲載する。(ただし修正・改削された箇所も多い。この計画に基づいて実施された。)
想定
八戸平野に侵入した敵に対し、陸羽街道を東進する混成旅団の作戦を容易にするため、歩兵第五聯隊第二大隊は一月二十二日夜、青森西営に宿営する。右側衛の任務として田代街道を経て三本木に進出し、我が旅団の作戦を容易にする。
行軍の目的
積雪の時期に田代街道を経て三本木に進出するものとし、行軍の目的は以下の通りとする。
一、荷物運搬方法の研究
編成
| 役職 | 氏名 |
|---|---|
| 中隊長 | 神成大尉 |
| 第一小隊長 | 伊藤中尉 |
| 第二小隊長 | 鈴木少尉 |
| 第三小隊長 | 大橋中尉 |
| 第四小隊長 | 水野中尉 |
特別小隊を含め、第五・第六・第七・第八中隊の下士卒で構成された。
行程表
| 日 | 目的地 | 宿営方法 | 距離 |
|---|---|---|---|
| 第一日 | 田代 | 村落宿営 | 約五里半(約22km) |
| 第二日 | 鱒澤付近 | 村落露営 | 約四里半(約18km) |
| 第三日 | 三本木 | ― | 約三里(約12km) |
備考:寒地着部隊は三十分ないし一時間をもって循環交代する(先頭で雪を踏み固める部隊を交代制にする)。
| 日程 | 区間 | 距離 | 宿営 |
|---|---|---|---|
| 第一日 | 屯営(青森) → 幸畑 → 田茂木野 → 馬立場 → 田代 | 約5里半(22km) | 田代村落にて宿営 |
| 第二日 | 田代 → 嶺澤 → 鱒澤付近 | 約4里半(18km) | 鱒澤付近にて村落露営 |
| 第三日 | 鱒澤 → 三本木 | 約3里(12km) | 三本木到着(行軍完了) |
| ⚠ 実際には第一日で馬立場付近に停滞。田代に到達できぬまま鳴澤東方で露営し、以降4日間彷徨の末199名が犠牲となった。 | |||
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 行軍隊(210名) | 屯営(青森) → 幸畑 → 田茂木野東方 → 小峠丘上 → 馬立場付近高地 → 鳴澤東方高地(第一露営地) | 約20km予定のうち、馬立場付近で停滞。最終的に鳴澤東方で露営を決断。 |
| 後方(青森本部) | 屯営にて待機 | 通常の冬季天候と認識。特段の憂慮なし。 |
第二章 行軍の実施および遭難の状況
第一日(明治三十五年一月二十三日)
午前六時三十分、行軍隊は命令通り集合し、編成が終わると神成大尉は本日予定の行軍計画の概略を示した。
命令の要旨:
一、中隊は本日の予定通り、火打山を経て田代に向け行軍を行う。
二、行軍序列は伊藤・鈴木・大橋・水野の各小隊の順とし、中野特別小隊がこれに続き、行李(荷物隊)は最後尾に続行すべし。
三、先頭小隊は寒地着(防寒装備の先遣隊)をもって五十分ごとに小休止を行い、通路を踏み開いて行李の行進を容易にすること。
四、行軍規律を守るべし。ただし幸畑村までは寒地着隊を活用する。先頭小隊は順次交代する。
五、衛生法の実行を怠るべからず。
行軍の経過:
午前六時五十五分、二列縦隊をもって屯営を出発。午前七時に寒地着隊とともに進発した。先頭小隊は七時十分頃から通路の踏み開きを開始した。
先頭は三人一組で進み、次の二人が先頭列の間に入って交代しながら行進した。防寒外套を着用し、寒地着を履いて通路を踏み開き、後続の行進を容易にした。
田茂木野の東方から傾斜が次第に急になり、行軍は困難を増した。十一時三十分頃、行軍隊は小峠の丘上に到達した。
午後二時頃から風雪が次第に強まり、気温も氷点下二十度以下に降下した。携帯の米飯および水筒の水は凍結し始めた。風雪もまた甚だしくなった。
午後四時十分頃、行軍隊は馬立場付近の高地に到達したが、後方の行李との距離は甚だしく開いていた。急傾斜の登り降りで行進は困難を極め、速度は著しく低下した。
露営の決断と設営
約二百メートル先の森に達した者もあったが、行李が到着した頃にはすでに黄昏に近く、十四日の月明かりを利用しようとしたが、鳴澤東方の高地付近に達する頃には運搬が再び極めて困難になった。設営隊は道を見失い、先行した部隊との連絡も困難となった。
雨見習士官を田代方面に偵察に出したところ、風雪が激しく、進路も険しく天候回復の見込みがなかったため、露営を決定し、各小隊長に以下の命令を発した。
命令:
一、中隊はこの付近において露営することに決する。
二、各小隊は現在の位置において露営設備に着手すべし。
三、本部および炊事小隊は直ちに着手すること。
四、大橋小隊は直ちに兵卒十五名を派遣し、積雪を掘り開いて露営地の設備に着手すること。
露営の状況:
午後九時頃、全行李が露営地に到着し、各小隊に物資を分配した。
寒気は酷しく、気温は氷点下十二、三度に下がった。各小隊は長さ約二十メートル、深さ約五メートルの雪壕を掘ったが、底の地面に達することができず、掘削作業を中止して雪上に敷物を敷いて就寝した。
この夜、風雪は甚だ激しく、積雪は八尺(約2.4m)にも及んだ。
炊事の困難:
炊事場の設備は不十分で、わずかに一個の焚き火があるのみであった。木炭は約四十(斤)にも足りず、銅平釜一個で炊飯を行った。水はまず雪を融かして使用したが、米飯は石のように堅く凍ってしまい、配給するも食べることが極めて困難であった。酒も凍結し、辛うじて配分したが、好酒家でもこれを飲むに堪えなかった。
仮眠は各人が交互に行ったが、夜は午前一時に至るまで炊事の作業に追われた。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 行軍隊本隊 | 第一露営地 →【帰営決断・北へ】→ 方向喪失 → 駒込川本流に遭遇(東北方向)→ 方向転換 → リングワンダリング → 第二露営地(第一露営地の西方) | 午前2:30出発。帰営(青森への撤退)を試みるも視界10m以下のため方向を喪失。東北の駒込川に出てしまい、南西に転じるも環状に彷徨。最終的に第一露営地の西方で第二露営を決定。 |
| 山口少佐 | 本隊と行動 → 午後10時に将校を集め進退の決議 | 「前進も撤退も困難」という絶望的状況を認識。 |
| 伊藤中尉 | 第一露営地 → 西方を探索 → 第二露営適地を発見 | 三度隊長に報告を試みるも果たせず、自ら縦隊を突破して報告。 |
| 興津大尉・中野中尉・水野中尉 | 午後4時頃相次いで凍傷により倒伏 | 将校級の損耗により指揮系統が事実上崩壊。気温−25℃。 |
第二日(一月二十四日)続き ― 彷徨
鳴澤凹地を経て馬立場に至る決意で行進した一隊は、約一時間後に方向を誤ったことに気づき、再び露営地に戻ろうとした。しかし小流に遭遇し、露営地に到達することができなくなった。
方向を転じて行進を再開したが、不幸にも駒込川の本流に遭遇し、さらに遠退いてしまった。東北方向に路を転じ、佐藤特務曹をもって偵察させた。
鳴澤凹地に達すると、またも暗くなり、支流を渡って進路を探った。胸まで没するほどの積雪であった。通路は一歩一歩が困難を極めた。
さらに積雪の斜面を攀じ登った。この間、一歩一歩階段状に雪を踏み固めながら進んだため、行進は極めて緩慢で、一時間に約五、六百メートルを進むに過ぎなかった。
正午頃行進路の高地上に達したが、気温は氷点下25度に降下し、風雪は狂暴を極め、四周は暗澹として10メートル先の物体すら見えない状態であった。
凍傷の蔓延:
兵士たちの体は次第に凍りつき、眉毛は氷柱と化し、鬢髪も凍着した。顔面の多くは暗紅色を呈し、手足は次第に凍傷に冒された。外套の全面に霜が付着し、睡魔に襲われる者が続出した。
刻一刻と凍傷患者は増加し、叫び声を上げる者が出るに至って、悲惨な状況を呈した。伊藤中尉等は最後尾にあって、倒れる者を護り、力を尽くしたが、この状況を隊長に報告しようにも困難であった。
午後の惨状:
隊長に状況を報告しようと三度試みたが、いずれも目的を達することができなかった。中尉自ら縦隊を突き進み、ようやく隊長のもとに至って状況を報告した。
安全な場所に患者を収容しようとしたが、風雪のため困難を極めた。涙を呑んで患者を置いていかざるを得ない場面もあった。
午後4時頃興津大尉、中野中尉、水野中尉等が凍傷により相次いで倒れた。上官を自ら抱き護ったが、ついにその身も力尽きた。水野中尉以下の従卒ともに、不幸の極みというべき状態であった。
午後5時頃伊藤中尉が先頭にあって、比較的良好な地点を発見した。三〜四百メートル先の地点に再び露営することを決定し、倉石大尉等もまた患者の収容に走った。しかし既に多くの患者を発見・収容することすら困難な状態であった。
決議:
午後10時頃山口少佐は将校の意見を聴取し、以下の決議を行った。
一、田茂木野方向に到達できたとしても、救援隊との合流は疑わしい。
一、方向を誤った以上、田代への前進も困難である。
一、給養(食料補給)の見込みも立たない。
以上の状況から、終夜をかけて蘇生(回復)を計ることとした。
第二露営の状況:
各小隊は互いに密接して円陣を組み、わずかに雪を踏み固めて休憩地を作った。凍傷を防ぐため、ある者は足踏みをし、ある者は手指を摩擦し、体温の保持に努めた。睡魔に襲われる者には声をかけて覚醒させた。
食料の状況:
この夜も風雪・寒威は昼間と異ならなかった。焚き火は一つもなく、各自が携帯していた二、三食分の糧食はわずかであった。餅は氷結して石のようになり、牛缶詰が一個あるのみであった。飯に酒を加えた水や塩湯・麦湯を入れたものも、すべて凍結していた。身も心も苦痛を覚え、噛み砕こうにも歯が立たなかった。
死者の発生:
午後9時頃興津大尉がまた倒れ、人事不省(意識不明)に陥った。異常な様相を呈する者が続出し、停止する者が多くなった。死者は二十余名に達した。
部下の鈴木少尉、山田特務曹長、軽石三蔵等も倒れた。戦友の助けを得ようにも、もはや他者を助ける余力のある者はほとんどいなかった。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 行軍隊(残存約140名→急減) | 第二露営地(西方)→ 鳴澤渓谷を一列縦隊で北へ下降(田茂木野方向)→ 第三露営地(中ノ森右上付近・第二より北方) | 払暁時点で約1/3が死亡。田茂木野への脱出を目指し鳴澤渓谷を北へ下降するも凍傷者続出。 |
| 倉石大尉 | 第二露営地 → 東方の高地上に進出(07:30)→ 右折(北方向)→ 渡邊軍曹以下12名を田茂木野方向へ斥候派遣 | 高地から田茂木野方向(北方約8km)の確認を試みる。ラッパ吹奏も唇凍着で不能。大橋中尉は09:00に高地へ進出。 |
| 神成大尉 | 第二露営地 → 各小隊検閲 → 先頭に立ち行進 → 一群と行動 | 残存人員を確認し行進を指揮。 |
| 大橋中尉 | 第二露営地 → 高地上に進出 | 飢餓と凍傷により腹痛を起こし行動困難に。 |
| 後方(青森本部) | 屯営 → 和田少尉以下40名を田茂木野に派遣、古関中尉も出発 | 消息途絶を受け出迎えの隊を派遣するも情報得られず。 |
第三日(明治三十五年一月二十五日)
払暁(夜明け)を待ち、神成大尉は各小隊を検閲して残存人員を確認した。
この時点で、約三分の一が凍傷による死亡者であった。
残る比較的健全な者をもって、行軍隊は一列縦隊で鳴澤の渓谷を下った。山口少佐、倉石・神成両大尉が先頭に立ち、前日と同様に前進を試みた。
午前7時半頃倉石大尉が高地上に進み、一時停止して右折した。付近の患者を数名護送する軍医の求めに応じた。
午前9時頃大橋中尉が右折して高地上に進んだ。
倉石大尉の決断:
勇敢な渡邊幸之助軍曹、高橋伍長以下十二名が応じて倉石大尉のもとに集まった。大尉は以下の任務を与えた。
渡邊軍曹は五名を指揮して前方高地に向かい、高橋村方向(田茂木野方向)を確認すること。田茂木野まではこの高地から遅くとも二里(約8km)と推定された。
倉石大尉の奮闘と衰弱:
午前10時頃救援隊を呼称する声が聞こえたが、実際には幻聴であった可能性が高い。
倉石大尉は先頭に立って兵卒の士気を鼓舞しようと、喇叭(ラッパ)を吹奏させたが、唇が凍着して十分な音が出なかった。一同の士気も沮喪する状態であった。
大橋中尉は飢餓と凍傷により腹痛を起こし、手指の摩擦も困難になった。倉石大尉自身も気力が消磨して意識が朦朧としてきた。
午前11時頃倉石大尉は一群を率いて渓谷を下り、興津大尉、今泉見習士官以下数名を集めた。
午後5時頃軍医等の行方が不明となった。倉石大尉は露営地偵察のため一地を選定した。
第三露営の状況:
この夜も風雪・寒威は昼間と変わらなかった。この時点ですでに糧食・燃料は一つとして手に入る見込みがなかった。食欲を失い、常識的判断力も衰え、飢渇と疲労、不眠は著しく身体を衰弱させた。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 行軍隊(残存約30名) | 第三露営地(中ノ森の右上)→ 高地上 → 山腹を下降 → 駒込川沿いに各方面へ分散 | 午前1時に中ノ森付近にて検閲、約30名のみ。大瀧平・青岩は第三露営地の北西に位置し、田茂木野方向。 |
| 倉石大尉 | 第三露営地 → 高地上 → 右方に転じ田茂木野方向を探索 → 駒込川渓谷 | |
| 神成大尉 | 駒込川沿いに北西へ → 青岩付近 → 大瀧平方向(一群6〜7名、田茂木野方向への脱出を試みた) | 一群6〜7名と懸崖にたどり着く。生存の望みわずか。 |
| 中野中尉 | 三度にわたり死に場所を定めようとした | 極限状態の記録。 |
| 救援隊(三神少尉) | 午前5:40屯営出発 → 幸畑(土民20名合流)→ 田茂木野(一泊) | 武器なし、精米五升・パン3個・懐炉1組を携帯。 |
第四日(明治三十五年一月二十六日)
出発時の状況:
連日の飢渇・激動および不眠は著しく身体を衰弱させ、顔色は憔悴し、精神は茫然として夢幻の中にいるかのようであった。
倉石・神成両大尉は伊藤中尉、鈴木少尉、今泉見習士官、佐藤特務曹長等とともに払暁を待って行進を再開することを決した。
午前1時頃人員を呼集して検閲したところ、約三十名を数えるのみであった。
この日は降雪は激しかったが、風力は前日に比べてやや弱まっていた。
午前7時半頃倉石大尉が高地上に進み、右方に転じて田茂木野方向を確認しようとした。山腹の勾配を下り、駒込川の渓谷に到達した。
神成大尉は付近の一群と合流し、青岩付近で一群六、七名が懸崖にたどり着いた。中野中尉は三度にわたり死に場所を定めようとした。
大瀧平付近に至り、神成大尉の一群は人数も少なくなり、微かに生存の望みを保つのみであった。
注意:行軍実施の景況は、もっぱら倉石大尉以下の生存者の口述により編纂されたものである。
第三章 遭難当時における青森付近の気象
青森測候所の測定に係る気象報告を検証し、本年の各期間における当地の気温変動を観察した。
気温の推移:
聯隊第二大隊が遭難した一月二十四日前後は、約一週間にわたって平均気温が氷点下十度二分ないし七度の間を上下していたが、その後気温は漸次低下した。二十四日に至り同日夜半には氷点下九度ないし十度に降下し、静穏であった午後から一転して強風を見るに至った。気温はさらに低下し、二十七日に至って回復した。
遭難地の気温推定:
遭難地の気温を推定する基準として、青森市内よりも三度ないし十度低いことが判明している。風力と平均八度の差をもって遭難地の気温を比較すると、氷点下二十度以下に降下したことは疑いない。
積雪の状況:
森及び鳴澤付近(八甲田山原の北麓沿い)の積雪は、少なくとも一丈二尺ないし一丈七、八尺(約3.6m〜5.4m)に達した。河原付近では九尺(約2.7m)。雑樹林の樹面を抜くこともできないほどであった。
遭難地は八甲田山の北麓で標高千五、六百尺(約450〜480m)にあり、一帯の寒威はまさにこのようなものであった。
| 年月日 | 天候 | 風雪 | 風向 | 風力 | 平均気温 | 最高 | 最低 | 較差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 明治27年1月24日 | 全雪 | 全雪 | 全西 | 強 | −9.6 | −8.2 | −12.0 | 3.6 |
| 明治30年1月24日 | 全雪 | 全雪 | 全西 | 烈 | −9.1 | −8.6 | −10.2 | 4.3 |
| 明治33年1月24日 | 全雪 | 全雪 | 全西 | 烈 | −9.2 | −8.0 | −12.6 | 2.0 |
| 明治34年2月4日 | 全雪 | 強 | −10.8 | −8.0 | −13.6 | 2.9 | ||
| 明治35年1月24日 | 全雪 | 全強 | −10.2 | −8.2 | −12.6 |
第四章 救援隊派遣
事態の認知:
行軍第一日(一月二十三日)は多少の困難はあったものの、青森付近での通常の冬季天候であった。田代にも若干の食料があるはずであり、当日の段階では特に憂慮すべき状況ではなかった。
1月25日降雪は依然として続き、行軍隊からの消息は得られなかった。行軍隊は本日必ず帰営するはずであったが、前日に比べて風雪がやや衰えたにもかかわらず、何の連絡もなかった。
万一を慮り、和田少尉以下下士卒四十名をもって田茂木野に出迎えの隊を派遣した。また古関中尉も田茂木野方面に向かった。
正午に至っても風雪は止まず、途中何らの情報も得られなかった。
救援隊の編成:
| 役職 | 人員 |
|---|---|
| 隊長 | 少尉 |
| 軍医 | 一等軍医 村上定之助 |
| 下士卒 | 三名(看護手一名含む) |
救援隊は武器装具を携帯せず、防寒被服を纏い、精米五升・パン三個・懐炉一組を携帯した。
救援隊の行動:
1月26日 05:40救援隊は屯営を出発。幸畑において土民(地元住民)二十名を集めた。
救援隊は田茂木野に一泊し、翌朝五時に出発して無理にも田代に到達する計画であった。
三本木警察分署より返電があり、歩兵第三十一聯隊(弘前隊)に関する情報を得た。
1月27日 05:00救援隊は田茂木野を出発し、田代に向けて前進。先頭は土民隊二十七名、次いで小官以下の兵が続いた。
午前9時頃大橋中尉を発見。飢餓と凍傷で衰弱していた。
午前10時頃大橋中尉を救護し、軍医を求める声を聞いた。永井軍医を捜索。
午後1時頃鳴澤谷底より馬立場に通じる経路に達した。
午後5時田茂木野に帰還。村落で露営し、翌日の準備を行った。
第一期は田茂木野からの狭い回廊を南へ前進しながら哨所を設置。第二期で31連隊の増援を得て面的展開へ移行。第三期で捜索範囲は最大に達し、鳴澤東方斜面・谷全域をカバーした。
第四期で31連隊が撤収し独力捜索に移行。面的展開から重点地域への転換。第五期は断崖・険難地域に人夫11名(各自に軍曹・兵卒各1名を付けた独立班)を投入する精密捜索。第六期以降は融雪に伴い、駒込川の河川捜索と水柵による遺体漂流防止が主軸となった。
全期間を通じた発見記録を時系列で表示。生存者17名の発見は全て1月27日〜2月2日の7日間に集中している(うち6名が入院後死亡)。遺体発見は5月28日まで約4か月に及んだ。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 救援隊 | 午前5:00 田茂木野出発 → 田代方向前進 → 後藤房之助伍長を仮死佇立状態で発見(最初の発見) → 大橋中尉を飢餓・凍傷状態で発見 → 鳴澤谷底 → 午後1時 馬立場方面 → 午後5時 田茂木野帰還 | 土民隊27名が先導。後藤伍長の発見により遭難の全容が判明。 |
| 増援隊(鑑澤大尉以下150名) | 午後3時 屯営出発 → 午後5時 田茂木野到着 | 聯隊長が事態の深刻さを認識し編成。 |
第五章 捜索救護計画ならびに実施
第一 捜索救護の計画
1月27日 19:00聯隊長は三神少尉の詳報に接し、事態の深刻さを認識した。
19:43神成少尉(注:別の神成)が聯隊に到着し、現場の状況を報告した。
この時、救援隊は田茂木野に引き上げてきていた。聯隊長は直ちに増援隊(百五十名)を編成し、午後三時に屯営を出発させ、田茂木野に向かわせた。
鑑澤大尉以下百五十名が午後五時に田茂木野に到着。夜を徹して救援に従事する計画を採った。
19:43後藤伍長の口述による報告が聯隊長のもとに届いた。
捜索の困難さに関する認識:
今日の困難な状況は、一小部隊の能力をはるかに超えるものであった。積雪に圧没し、吹雪に阻まれ、生死の境を彷徨する百名の戦友を捜索するためには、全力を挙げて取り組まなければならない。捜索隊自身もまた困厄に陥り、設営や給養すら危ぶまれる寒地において、人の胆勇を奮い起こして臨まなければならなかった。
捜索救護の組織:
主力を田茂木野以南の遭難地に投入し、雪路の踏み開き、物資輸送、通報連絡を体系的に行う計画が立てられた。給養・衛生の任務にあたる部隊を配置し、各哨所間の連絡を確保した。
主な配置:
| 区分 | 場所 | 任務 |
|---|---|---|
| 捜索隊本部 | 田茂木野 | 捜索の指揮・統制 |
| 各哨所 | 田茂木野〜遭難地間 | 連絡・物資中継 |
| 炊事場 | 田茂木野・幸畑 | 給養の供給 |
| 衛生部 | 田茂木野 | 負傷者の治療・搬送 |
| 支部 | 幸畑 | 後方支援 |
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 捜索隊 | 田茂木野 →(哨所を順次設置)→ 第一〜第八哨所 → 遭難地方面 | 積雪1.8〜2.4m。1月30日に最初の遺体6名を発見。1月31日に生存者2名を鳴澤で発見。 |
| 臨時電信隊(47名) | 弘前 →(列車)→ 青森着(1/28 21:52)→ 屯営 → 幸畑〜田茂木野間に電信線架設 | 1/29:屯営〜幸畑3,100m、1/30:幸畑〜田茂木野3,900m架設。 |
第二 捜索救護の実施(第一期)
1月28日早暁より捜索救護を開始。将校等はあらゆる困難を排除して前進した。
この日の捜索では、田茂木野を基点として各哨所を前進路上に設置した。積雪は腰部以上で、深さは六尺ないし八尺(約1.8m〜2.4m)に達した。
1月29日午前六時より捜索を再開。しかし吹雪のため歩行が困難となり、方向を誤る危険もあったため、前進を一時停止した。
捜索隊本部は人夫を交替させ、一部は材料の収集に、一部は雪路の開設と炊事場の設備に従事させた。第七・第八哨所まで前進し、田茂木野に捜索隊の集結所を設置した。
哨所の展開:
田茂木野から遭難地に向けて第一哨所から順次設置。各哨所間を連絡し、物資の中継と情報伝達を行った。積雪のため開設は困難を極め、一日に進める距離はわずかであった。
捜索体制の確立:
第二大隊遭難の第一報に接した聯隊長は、直ちに衛生部員の増加を師団に電請した。各哨所に一等軍医・坂定義之助を配置し、衛生事務を定めた。
1月30日味爽(未明)より第七哨所以南に展開。この日は天気晴朗であった。九時前後、捜索隊の一部が河原高地付近において六名の死体を発見した。各哨所は半ば完成し、日没過ぎまで捜索を続けた。
1月31日天気晴朗。午前九時頃、阿部中尉の指揮する捜索隊が鳴澤の小屋において生存者二名を発見した。
午後三時頃、高島大尉の指揮する捜索隊もまた鳴澤において中尉の遺体等を発見した。
| 主体 | 移動ルート | 状況・備考 |
|---|---|---|
| 捜索隊(約240名) | 田茂木野 → 各哨所 → 鳴澤東方斜面・渓谷 → 遭難地全域 | 2/2〜3天候悪化で中止。生存者:伊藤中尉・倉石大尉・後藤惣助一等卒等を各所で発見。 |
| 第31連隊(弘前) | 弘前 → 青森 → 田茂木野 → 捜索隊に合流 | 増援として合同捜索体制を構築。軍医5名も来援。 |
| 工兵第八大隊(355名) | 2/2 弘前より来援 → 田茂木野・第八哨所・第七哨所に配置 → 通路開達・廠舎構築 | |
| 東宮武官・清水谷大尉 | 東京 → 青森来営(2/5) → 田茂木野(2/7) → 第八哨所巡視 → 帰京復命 | |
| 立見師団長 | 2/8 遭難地に登山、捜索実況を視察 |
第三 捜索救護第二期(二月一日〜二月九日)
第一期末において歩兵第三十一聯隊(弘前隊)の増援隊を得たことにより、捜索体制を大幅に拡充した。五個の伝令所を新たに設置し、第五聯隊と第三十一聯隊の合同で捜索隊を編成した。平岡少佐以下の必要人員は帰営させ、前方の捜索地域を規定した。
給養の改善:
第二期では捜索隊員の給養に特に注意が払われた。副食物として蕎麦付・焼き鶴(鶏の一種か)・焼き遠・蕎麦・富子・奈良漬・南鑑・漬大根・漬干等の類を支給した。
結果は良好で、現品を給与した。燃料は平素の二倍以上を要した。飯盒をもって調理できない状況に至った場合は各個に自炊させた。最も便利な形態として竹の皮包みにして飯を携行させた。
副食物の種類は牛肉缶詰・盤蔵(保存食)等であった。
天候と捜索の困難:
この期間の天候は概して不良であった。田茂木野以南では気候の変化が激しく、田茂木野以北が静穏であっても以南は強烈な西北風と激しい寒威に見舞われた。気温は氷点下十度前後を推移した。
2月2日・3日風雪が猛烈となり、捜索中止を余儀なくされた。
翌日は風が和らぎ天気がやや好転したが、再び不良の状況を呈した。
捜索隊の苦闘:
本多捜索隊のような部隊は、殺人的な忙しさであった。怒りと疲労を名状しがたい状態であった。部下の動作は凍傷により困難を極め、一度の突風で雪が舞い上がり飛散して、修繕もままならなかった。
捜索隊員自身も厳しい寒気にさらされ、仮に怒然として立ち止まれば凍傷の危険があった。風紛(吹雪による粉雪)が噴き上がり、休養すら許されない状況であった。
第四 捜索救護第三期(二月十日〜二月十八日)
生存者の発見(続):
佐藤小隊が田代湯本(元湯)に至ったところ、さらに生存者として伍長 村松文哉と一個の死体を発見した。時刻はすでに午後三時を過ぎており、患者・村松伍長に急ぎ手当を施し、本夜は元湯に露営した。午後十一時頃、暗闇の中で伍長を収容所に搬送した。
皇室からの慰問:
この日、従武官・宮本砲兵大佐が勅旨を奉じて来営し、優渥なる(手厚い)慰問があった。
捜索の進展:
天候がやや好転し、鳴澤東方斜面及び谷において捜索隊が各自の区域を捜索した。多数の死体を発見した。
四十六名に及ぶ遺体が発見され、工兵大尉・一柳、同中尉・桑原等の配置についた。約三十名がなお行方不明であった。
遭難地から田代付近までの捜索には依然として困難が伴い、太田中佐、友安旅団長、山之内県令らが対応にあたった。
皇室・政府の関与:
2月5日天候がやや静穏となり、死体一個を発見。各区域の捜索を継続。
2月6日天皇陛下は内海軍内大臣を御前に召され、御下命があった。内務大臣書記官・有松書記官を遭難地に派遣し、聖意を伝達させた。
2月7日東宮武官・清水谷歩兵大尉が東宮殿下(皇太子)の令を奉じて来営。手厚い慰問があった。
2月8日連日の渓谷捜索を目的として午前十時より各小隊を展開。立見師団長と東宮武官・清水谷歩兵大尉が相次いで登山し、遭難地に臨んで捜索の実況を視察した。
この日、各捜索隊の疲労が特に甚だしいため、逐次帰営・休養させた。高島の両哨所を合併する措置もとった。
捜索隊員の苦闘の実態:
この期間の天候は概して不良で、捜索隊を困難の域に陥れた。気温は氷点下十五度に達し、乾坤(天地)が暗澹とする状態であった。
哨所での生活:
風紛(粉雪)が噴き上がり、休養すら許されなかった。哨所の修繕に忙殺され、兵卒の動作は凍傷のため困難を極めた。惨憺たる状況に遭遇し、名状しがたいものであった。
夜半には吹雪が哨所の側壁を吹き飛ばし、蓋(屋根)を飛散させ、積雪が押し寄せた。昼夜を問わず奔走し、安眠を得ることができなかった。
捜索隊員の心理:
最も多く見られたのは、壇(温もり)なき中で、亡き戦友の死を思い、その熱誠と志気をもって業務を継続する姿であった。しかし疲労は日に日に加わり、業務の継続が困難な状態に至った。
給養の課題(続き):
第一期以来採用していた竹皮包みの飯は、酷烈な寒気のため急速に氷結し、分配することすら困難であった。炊飯した飯も直ちに凍り、味が著しく変わった。
そのため各自が飯盒で調理する方式に改め、現品(実物支給)で対応したところ、労働する兵卒に一定の満足を与えることができた。
しかし氷点下の環境では調理自体が困難で、量を少なくせざるを得ない場合もあった。竹皮包みは過少・調理不良を生じやすいことが判明した。
第五 捜索救護第四期(二月十八日〜三月七日)
遭難後、捜索を開始してすでに三週間が経過した。事業は大いに進捗し、少なからぬ成果を収めたものの、捜索の将来に及ぼす影響を思惟する必要があった。
部隊交代:
2月16日上田・高橋両大尉以下百六十九名をもって、第三十一聯隊(弘前隊)の柏村大尉以下百六十七名と交代。
後藤弘大尉以下三百七十二名と交代し、歩兵の全部および工兵第八部隊の大部が捜索業務から離れた。以後、第五聯隊の独力をもって捜索を継続することを決した。
この期間の天候も概ね不良であり、捜索隊は引き続き困難な状況に置かれた。
第六 捜索救護実施第五期(三月七日〜三月二十七日)
捜索の変容:
この期に至り、捜索の性質が変化した。遭難地に接近できる場所は狭小であり、有望な地点は概ね捜索を終えていた。大衆(大人数)を投入する段階は過ぎ、断崖や険難な地域への踏み込みが必要となった。
また、新兵教育も始まる時期であり、捜索と教育訓練の両立が課題となった。
部隊編成の変更:
弘前の後藤大尉以下三百九名をもって交代。第三十一聯隊の柏村大尉が引き継ぎ、捜索業務は全て古兵(経験兵)を使用した。
険難地域への捜索:
駒込川及びその付近の有望で険難な地域の捜索のため、十一名を選抜し、軍曹と兵卒各一名を付して各自独立的に行動させた。
田代方向への派遣小隊と田茂木野以北の捜索を実施。渓谷内では別に小隊を編成し、特に鎮倉少尉に横内川渓谷の捜索を命じた。天候の許す限り、連日捜索を継続した。
捜索隊の組織変遷:
捜索は第一期から第六期まで、約二か月にわたって実施された。各期で編成を変更し、以下のような体制で臨んだ。
| 期 | 期間 | 主な特徴 | 参加規模 |
|---|---|---|---|
| 第一期 | 1月28日〜1月31日 | 初期捜索、哨所設置 | 約80名 |
| 第二期 | 2月1日〜2月9日 | 31連隊増援、本格展開 | 約240名 |
| 第三期 | 2月10日〜2月18日 | 皇室視察、多数遺体発見 | 約200名 |
| 第四期 | 2月18日〜3月7日 | 独力捜索移行、部隊交代 | 約170名 |
| 第五期 | 3月7日〜3月27日 | 険難地域精密捜索 | 縮小編成 |
| 第六期 | 3月27日〜 | 雪解けに伴う最終捜索 | 縮小編成 |
主な配置拠点:
田茂木野(捜索本部)→ 幸畑(支部)→ 各哨所(第一〜第十五)→ 鳴澤・高島・本多・高橋の各前線哨所
捜索は延べ数千名が参加する大規模作戦であり、通信線の架設、炊事場の設営、給養の確保、衛生部の配置など、後方支援も含めた総合的な軍事作戦として実施された。
四月一日時点の捜索部隊編成表
指揮官:大尉・上田幸居
| 部隊名 | 将校 | 下士以下 | 人夫 | 計 |
|---|---|---|---|---|
| 特別搜索隊(少尉・三神定之助) | 1 | — | — | — |
| 河川搜索隊 | — | 数名 | — | — |
| 河川收容所 | — | 数名 | — | — |
| 通信所 | — | 数名 | — | — |
| 工兵隊 | — | 数名 | — | — |
人夫として北海道土人(アイヌ)および地元の土人(常地方=青森地方の住民)を雇用。
備考:鳴澤哨所へは中隊の建制を維持しつつ第七哨所に宿営。中間哨所へ下士以下六名を派遣した。
河川捜索隊の活動:
河川捜索隊は第七哨所の捜索貨物集積所を拠点に、各隊が運輸部を除いて戦友の遺体発見に従事した。少尉・今泉三太郎、第十中隊軍曹等が駒込川中に派遣され、融雪の中から第八中隊一等卒・加藤善治の遺体を発見した。また中間哨所付近では、本森南方斜面を捜索中に兵・大嶋喜作の遺体を発見した。
駒込川断崖地帯の困難:
遭難地付近の駒込川は断崖が連なる地形であり、捜索は極めて危険であった。竹竿を三尺(約90cm)間隔で刺突する方法は、堅雪に大いに妨害された。第一期以来、第二露営地付近を三尺の深さまで掘り開き、武器装具若干を発見した。
水柵を構築して融雪水に備えたが、遭難地との距離が遠く、工兵への負担は大きかった。融雪期には流木の除去にも忙殺された。死体が水流により流下する恐れもあり、積雪中の捜索と融雪対策を同時に進める必要があった。
四月中旬の捜索:
4月16日友安第四旅団長が登山。翌日田代に至り、18日に帰営。実地を視察した。
この頃より天候が漸次良好となり、捜索上大いに便宜を得た。
4月19日捜索隊が立場西方、鳴澤を通ずる道路の約五十メートル地点において武器装具を発見。
4月20日天気やや曇朗。第七中隊上等兵が背嚢を負い銃を手にした状態で発見された。
【特務曹長・今井米雄以下四名の発見】
4月21日天候晴れ、風静穏。特務曹長・今井米雄以下四名の遺体を発見。
遺体発見時の状況
四名が一か所に集合した状態で発見された。特務曹長・今井は自らの佩刀を刀帯と共に脱ぎ取り、傍らに樹立させていた。身をもって他の二名を覆う姿勢であった。最後まで部下を守ろうとした姿と推察される。
4月22日第一中隊が鳴澤西方南方の渓谷において第六中隊一等卒・菊池連次郎の遺体を発見。
この日、北海道土人(アイヌ)が当地に来着。六十七日の長きにわたって従事した搜索隊の編成を解き、帰還させた。
4月23日捜索隊の交代を実施。各聯隊の下士以下十名を合わせ新たな捜索隊を組成。
4月24日第五中隊が馬金堀澤斜面において武器装具を発見。第二大隊長・工藤少佐が部下大隊を率いて登山し、遭難地の現況と捜索隊の実況を巡視。
4月25日田茂木野にて正三郎の遺体を発見。
4月26日田茂木野の規模が大いに縮小。運搬を要する量が減少。鳴澤東方斜面及び谷を捜索。
天候が好転し、捜索の成果は著しかった。ただし遺体の腐敗が始まっており、その惨状は観る者の鼻をつく状態であった。二等卒・千葉右衛門以下二名の遺体を発見。
特別捜索隊は蛇ノ木澤において第五中隊二等卒・野崎清太郎の遺体を発見。武器装具若干も回収された。
第七 搜索救護実施第六期(四月二十七日〜)
この時期は軍隊にとって極めて緊要な教育時期(新兵訓練期間)にあたった。捜索と教育の両立が求められた。
生存者の倉石大尉と伊藤中尉は当時まだ完全に快復していなかったが、搜索隊の指導に当たった。
部隊の再編成:
・搜索隊の交代を了し、歩兵の全部および工兵の大部が入替わった
・第七哨所兵站部長には伊藤中尉を任命
・田茂木野兵站部には長谷川特務曹長を長とした
・各聯隊の下士以下十名を合わせ捜索隊を組成
・捜索隊の編制を改め、兵力を減少させつつ各聯隊の教育の完成を図った
遺体の発見(第六期):
5月3日第二・第五・第七中隊が蛇ノ木澤の上谷において第八中隊一等卒・春日林太夫の遺体を発見。
5月9日朝から風雨が激しく、柳澤に降雨甚だし。第七中隊上等兵・柏鑑蔵以下二名の遺体を発見。後藤正三郎の遺体および武器装具若干も発見。
【遺体の河川漂着が発生】
5月10日早朝松森村の土民(地元住民)より報告あり。同村西部の駒込川において一遺体が漂着した旨。工藤少佐以下が出動した。
融雪と頻繁な降雨により、水柵が各所で破壊された。松森方面に流木の監視哨を増設し、水柵の補強を行ったが、融雪期の水流は激しく、流木の除去に忙殺された。
河川捜索隊は第五・第九中隊とともに、午後三時に馬立場東南斜面において第七中隊一等卒の遺体を発見。
第八 搜索救護実施第七期並びに結了(五月十八日〜)
海岸東公園より西桟橋間の捜索を継続した。
5月14日工兵隊長の人夫・千葉善三郎が蛇ノ木澤において第七中隊一等卒・金田陽治の遺体を発見。
5月15日第三中隊一等卒・千葉善三郎。田茂木野南道路の構築を開始。
5月17日捜索隊は既に長期間業務に服し、士卒の疲労は極度に達した。本日その一部を交代した。この期間の天候は概ね良好で、積雪も大いに減少し、成果を挙げた。
要人の視察:
・師団参謀・倉澤が田代付近の捜索隊の実況を巡視
・青森県知事が搜索隊露営地を巡視
5月24日捜索隊露営地南方約二百メートルにて第八中隊一等卒・吉田留吉の遺体を発見。さらに平澤にて兵衛の遺体を発見。
5月27日河川捜索隊が青岩以南の、山口少佐一行が生存した地点を反復捜索。第三大隊長・小倉少佐が部下大隊を率いて登山。
5月28日午前七時より第三大隊長・小倉少佐が大隊を率いて捜索に従事。三階滝上方にて第六中隊上等兵・佐藤勝治の遺体を発見(最後の遺体発見)。水野中尉の指揮下で引き続き捜索。
【搜索の完結】
明治35年(1902年)6月20日― 搜索を完了した。
全区域にわたって銃剣を用いた雪中探索を数百回にわたり反復し、駒込谷底はもとより、一セント(一寸=約3cm)たりとも遺漏なく拾取した。遭難地の状況は、雑草が繁茂して人影なき有様となっていた。
回顧
一月二十八日に捜索を開始して以来、将卒は四か月にわたり寒冷に耐え、刻苦して戦友の遺体追跡に従事した。剛風に耐え、慈仁(天皇の慈悲)の恩賜を拝し、社会の同情を受け、充分な費用を以て事にあたった。
「唯二百ノ死屍ヲ完全ニ收容シ得タリ」
「四千萬同胞ノ同情ニ報スルヲ得タリ」
二百の遺体を完全に収容し得たことで、四千万同胞(日本国民)の同情に報いることができた。
第一 臨時電信隊の事業
聯隊長は捜索事業の計画を立てるにあたり、通信手段の確保が最も必要と認め、1月28日工兵第八大隊から臨時電信隊を編成した。
| 役職 | 階級 | 氏名 | 人数 |
|---|---|---|---|
| 隊長 | 工兵中尉 | 内藤三守 | 1 |
| 技手 | — | — | 2 |
| 下士 | — | — | 7 |
| 兵 | — | — | 37 |
| 合計 | 47名 | ||
装備:現字機(モールス電信機)8台、携帯式野戦電話機2台、被覆線と銅線を携行。所要材料約20キロメートル分。
午前2時30分に出発し、列車に搭乗して青森へ向かったが、汽車の運行は大いに遅滞し、午後9時52分に青森着。全夜休養の後、屯営に至った。
電信線の架設経路と通信量を地図上に表現。田茂木野通信所が全通信の69%を処理。
二、建築作業(電信線の架設)
1月29日田茂木野〜第八哨所間の架設に着手。屯営〜田茂木野間には被覆線を、その他区間には銅線(裸線)を架設。
2月7日第七哨所〜鳴澤間の通信を開始。
2月18日主要区間の架設が完了。
2月27日第七哨所〜鳴澤間の通信を本格開始。
3月24日駒込川第二水柵の監視哨所まで電線を延伸。
架設上の困難:
裸線(銅線)は被覆線に比して断線しやすく、原因の多くは風雪によるものであった。深夜に断線が発生することも多く、直ちに修理班が出動した。二月十日には全通信が途絶し、全夜にわたって修理に従事した。風雪により修理に赴くことすら困難な日もあり、特殊な困難を伴った。
三、通信業務
電信線の総延長は実に24,300メートル(約24.3km)に及んだ。
1月30日第八哨所に通信所を開設。屯営と捜索隊を連繋。
2月1日屯営信有・田茂木野に捜索隊長を定めた。
2月7日田茂木野本部営に電話通信所を設置。
2月16日屯営および田茂木野と第三水柵との通信を開始。
3月24日第七哨所と相通じ電話機を据え付け。
4月24日駒込川第二水柵監視哨所への電話通信を開始。
通信業務の最繁忙期:二月初旬。一日あたり123通の電報を処理した。
5月2日青森の電信局との通信に移管。地方との通信は必要性が減少。
5月28日死体全部が発見され、通信業務も漸次結了した。
四、臨時電信隊の解散
捜索事業が終結に向かう中、各隊の整理を終え:
5月25日臨時電信隊は弘前に帰隊。屯営〜田茂木野間の電線は大典(軍の行事)用として一部残置。
6月10日田茂木野以南の電線を全面撤収。平常の通信に復帰した。
臨時電信隊 作業進行表
| 月日 | 架設区間 | 距離(m) | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月29日 | 屯営〜幸畑 | 3,100 | 被覆線架設 |
| 1月30日 | 幸畑〜田茂木野 | 3,900 | 被覆線・裸線混合 |
| 2月1日 | 田茂木野〜第八哨所 | 7,800 | 裸線架設 |
| 2月7日 | 鳴澤〜第七哨所 | 2,500 | 裸線建築 |
| 2月8日 | 第八哨所〜第十三哨所 | — | 電話線 |
| 2月18日 | 第十哨所〜第七哨所 | 7,800 | 被覆線往復改築 |
| 2月21日 | 第七哨所〜第十七哨所 | 4,000 | 被覆線継築 |
| 電信線総延長 | 24,300 | (約24.3km) | |
電報通信取扱数
| 通信所 | 期間 | 發信 | 着信 | 中継 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|
| 田茂木野通信所 | 1月29日〜全期 | 457 | 264 | 15 | 736 |
| 鳴澤・第七哨所 | 2月7日〜 | 78 | 85 | — | 163 |
| 第八哨所通信所 | 2月1日〜 | 42 | 75 | 5 | 122 |
| 青森通信所 | 全期 | 42 | — | 4 | 46 |
田茂木野通信所が圧倒的な通信量を処理しており、捜索の情報中枢であったことがわかる。
第二 工兵隊特別作業
2月2日工兵第八大隊の隊長以下355名が来援。一部は捜索に、一部は田茂木野・第八哨所・第七哨所に配置され、通路の開達と廠舎の構築にあたった。
2月12日工兵隊全部が下山し、一旦弘前に帰営。
3月1日新兵161名および教育要員を派遣。田茂木野正東の駒込川に第二水柵の構築を開始。
5月28日捜索事業の結了を告げた。
第一期作業の概況
2月3日の登山より第七哨所に至る全23日間、以下の作業を実施した:
・通路の開修(除雪・道路開削)
・各哨所の廠舎(作業小屋)及び幕舎(テント)の構築
・幸畑に第一水柵の築設
除雪・廠舎・水柵の配置。駒込川(東側)に水柵3か所を設置。
除雪作業
烈風が吹き、雪を巻き上げ吹雪と異ならぬ中での作業であった。全面的に作業を中止したのは僅か二日で、その他の日は吹雪の中でも作業に従事した。
最も困難であった点:
防寒外套の顔巾で鼻を防護したが、少しでも離れると鼻が凍り始めた。雪塊を投擲(投げ飛ばす)・破砕する方法を用いたが、手套(手袋)や爪子(道具)を以て頭上から降ろして眼を開くことすらできない状態であった。
積雪の深さ:
| 場所 | 積雪深 |
|---|---|
| 第八哨所・第七哨所・中間哨所 | 最浅部で1メートル |
| 中ノ森東北側・鳴澤哨所 | 最深部で3メートル以上 |
廠舎(作業小屋)
第八哨所付近で最大3メートルの積雪があり、第七哨所と鳴澤哨所が最も深かった。
屋根は星蓋式で、中間支柱を設けて雪の堆積に耐える構造としたが、やや大きな幅員のものは二〜三日で積雪により木材が破壊された。
幕舎(テント)(第四図参照)
歩兵隊は雪中に南側壁を地面に至るまで掘り下げて配列した。工兵隊が構築した幕舎はこれとは異なり、天幕と併用して持久策を講じた。
後に急造木舎を構築。入口は出入りに便宜なるよう設計し、中央に小さな炉を設けて木炭を焚き、寒気の直接侵入を防ぐとともに炭酸(一酸化炭素)の防止にも留意した。
水柵の構築
融雪期に備え、駒込川の遺体漂流を防止するための水柵を三か所に構築した。
| 名称 | 所在地 | 着工日 | 工期 | 構造 |
|---|---|---|---|---|
| 第一水柵 | 幸畑付近 | 3月1日 | — | 高さ約2m以上、鉄線使用 |
| 第二水柵(第四図) | 田茂木野東北方・駒込川 | 3月11日 | 21日間 | 高さ3.5m、上流約2,500m |
| 第三水柵 | 第七哨所付近 | 4月21日 | 30日間 | 監視幕舎を併設 |
水柵の目的:
一、増水の最高度以上に抵抗し、漂流物を防止すること
二、死体の漂流を防止し、容易に発見・収容できるようにすること
中径15〜20センチメートル間隔で杭を打ち込み、鉄線を繞らせる構造。第二水柵は高さ3.5メートルに及ぶ大規模な構造物であった。上流約2,500メートル、約500メートルの範囲をカバーし、味岡中尉以下七名が監視にあたった。
第七哨所の増築
第七哨所は二月中旬より捜索隊の大拠点となり、増築が行われた。
第三 経理機関事務
一、経理機関
捜索の初期においては、屯営内に設けた庶務部が後方勤務の根源として機能した。一等軍吏・安田友太郎がこれに尽力した。
2月7日安田友太郎が正式に命じられ、師団経理部の外に独立経理部を組織した。高山副監督の命を受け、以下の業務を担当した:
・遭難者の諸費・受官の整理
・新聞内営の設立
・隔時経理部の運営
以後、漸次整然たる事務の進行を見るに至った。
金銭の出納
二、物品の調達及び給養
捜索救護に要する費用は通常予算では支弁し得ず、直ちに臨時支出の途を仰ぐこととなった。予算の増額が間に合わない中、人夫賃・運搬賃・諸物品代は歳分の支払いを漸次増加し、約二万円に達した。
各大隊の委任経理積立金
| 部隊 | 金額 |
|---|---|
| 第一大隊委任経理積立金 | 金1,500圓 |
| 第二大隊 同上 | 金1,500圓 |
| 第三大隊 同上 | 金1,800圓 |
| 馬匹委員 | 金7,620圓50銭 |
| 酒保 | 金1,721圓50銭7厘 |
遭難者諸費(明治35年4月〜7月5日)
前渡金:金21万圓を受領。
明治34年度 遭難者諸費 支払高
| 費目 | 金額 |
|---|---|
| 通信費 | 金1,104圓91銭4厘 |
| 備人運搬費 | 金15,595圓49銭 |
| 雑費 | 金3,860圓53銭6厘 |
| 築造費 | 金2,538圓43銭7厘 |
| 旅費 | 金5,404圓31銭1厘 |
| 特別費 | 金8,517圓38銭4厘 |
| 糧食費 | 金15,732圓41銭 |
明治35年度 遭難者諸費 支払高
| 費目 | 金額 |
|---|---|
| 通信費 | 金1,104圓91銭4厘 |
| 糧食費 | 金37,676圓49銭7厘 |
| 雑費 | 金5,424圓77銭2厘 |
| 築造費 | 金3,858圓58銭6厘 |
| 旅費 | 金15,131圓43銭7厘 |
| 特別費(遭難者葬祭等) | (別途) |
総費用
計 金57,322圓23銭6厘
(差引・経常費定額戻入後の実支出:約27,676圓)
📊 費目別支出の可視化:
糧食
雪中での行動は疲労が甚だしく、空腹を覚える者が多かったため、精米は定量外に臨時で一日一名あたり三合以内を増給した。全哨所に炊事場を設け、雪を融かして炊飯した。
副食物は魚菜と肉類を適宜配合して調理し、各一食ごとに竹の皮包みとして概数をもって毎日送付した。一名毎日分約八銭〜九銭で配分された。
三月十四日より糧食区分の定量が改定され、加給品の基準も変更された。脂料を加え、精米は二合一勺の基準に定められた。酒は一日一名に一分(約一合)を給与した。
糧食表(将校以下一人一日の定量)
| 品目 | 定量 | 備考 |
|---|---|---|
| 精米 | 九合(全量) | 約6銭 |
| 脂料(油脂・調味料) | 全量 | 約8銭 |
加給品
| 品目 | 数量 |
|---|---|
| 小夜食(夜食) | 二個(内一品) |
| 餅・パン | 全量支給 |
| 酒 | 壱合 |
| 煙草 | 十本 |
捜索終了に伴う平常復帰
5月28日遭難者の遺体が全部発見されたことに伴い、聯隊長は以下の命令を発した:
「遭難者搜索終了に付き、来る六月一日より糧食は平常の定量に依る」
武器装具等の捜索終了に至るまで、加給品は給与を差し止めるとされた。
被服
支給した被服は手套(手袋)・靴下・木綿製手袋・足袋・雪杏(かんじき)等であった。連日の雪中作業で一日に二回の支給を要する場合もあった。通常の給与品ではまかない切れず、聯隊備品の毛製品を特別に支給した。縫具も使用したが漸次破損が進んだ。
炊具及び諸器具
各大隊の備付営用炊具を使用したが、漸次破損した。聯隊の備付数で充当し、なお不足する場合は臨時に調弁して支給した。開堀用の円匙(シャベル)等も、聯隊備用数では不足し臨時に調弁した。
その他雑器具
繩索類(ロープ)・蝋燭・経帳廻転打等を平時支給品から応用したほか、特別に調弁して支給した。
廠舎
布四千枚をもって風雪に対処したが、展被(テントの覆い)が壊れる事例が続出。構築法の不足と材料の不充分さが原因であった。
主な資材:
・莞(むしろ)25枚
・草40貫目(約150kg)
・上記を藁算で調弁
急造木舎を工兵に構築させ、材料を購買して幕舎93個を建設し、漸次完備した。
Part 4 で明らかになった事項
Part 4の主要内容:
■ 捜索第五期(続):駒込川断崖地帯の捜索。竹竿による三尺間隔の刺突捜索。友安第四旅団長が視察登山。
■ 特務曹長・今井米雄の発見(4月21日):佩刀を外し部下二名の上に身を覆い被せた状態。最後まで部下を守ろうとした姿。
■ 第六期(4月27日〜):教育時期との両立。生存者の倉石大尉・伊藤中尉が情報提供。捜索隊の縮小再編成。
■ 河川捜索と遺体漂着:融雪期に遺体が駒込川を漂流。松森村住民の通報。水柵が各所で破壊。
■ 第七期・結了:全遺体の収容完了(5月28日確認、6月20日捜索終了)。「四千万同胞の同情に報いた」。
■ 第六章 特別業務:
・臨時電信隊(47名、電信線24.3km、電報1,067通以上)
・工兵隊特別作業(355名、23日間の建設作業、除雪・廠舎・水柵)
・水柵三か所(駒込川、最大高さ3.5m、遺体漂流防止)
・経理(総費用57,322圓、前渡金21万圓、独立経理部の設置)
・給養(精米増給、酒・煙草の加給、竹皮包み弁当、6月1日平常復帰)
・被服(一日二回支給、毛製品特別支給、幕舎93個建設)
【諸物品調辨(物資調達)】
捜索隊の根拠地ともいうべき田茂木野は、八甲田山麓の寒村でわずか14戸しかなく、商人を町中に求めることのできない場所であった。多数の必要物品はすべて緊急を要するものであり、市井の商人に調達を依頼することは到底不可能であった。
一般に物資の購買については、車両または製作を要するものは状況に応じて付近の部村(周辺集落)に至らしめ集積させた。薪炭については木炭及び付近から、また盛岡付近からも堅雪の時期に雪上を運搬させた。
雪上輸送は比較的容易で価格も廉価に済んだが、運搬上は大いに困難を感じた。初めは山上の炭焼き場から直接購入し、3月中旬以降は堅雪を利用して運搬した。
雇用人夫を使用したが、道路は険悪で延行(進行)が不便であった。捜索隊における一人の負担量は四貫(約15kg)ないし六貫(約22.5kg)を超過することができなかった。
馬匹を使用することで大いに運搬力を増加させた。馬車の使用により、田茂木野間をすべて馬車で運搬できるようになった。4月初めから馬車を使用し、六十貫(約225kg)ないし百貫(約375kg)の運搬力を得ることができた。
【第四、運輸部設置前の業務】
遭難当時の凄惨な天候に打ち勝って捜索救護の実を挙げるためには、物資・材料を使用すべきものは設営に際してその目的を達することが困難であった。そこで捜索救護に必要な諸物資の調達業務を工藤少佐に命じ、二十八日には地方官を極めて勉励させた。
特に補給の方法において、運輸は実に困難な業務であり、担当者の労苦は多大であった。捜索救護に必要な諸物資・諸材料は続々と屯営(駐屯地)に集積し、運搬その他の使役に応じるため臨時雇用人夫および地方寄附による人夫を使って運搬を行った。
【輸送の状況】
屯営(駐屯地)に庶務部を設け、部員・軍正(経理官)木直江に専ら運輸業務を専任させた。この期間において田茂木野に集積所を設け、田茂木野以南の各屯営内にあるものは田茂木野集積所に集積した。軍需品は庶務部より各哨所に運搬し、先頭の各哨所および各隊に使用させ、人夫を使用した。
当時の雪量は著しく多く、かつ柔らかくて路外一歩も許さない状況であった。営(田茂木野)では旧雪を踏み固めて道路とした。
時には遠伝法(リレー方式)を採用し、田茂木野以南の各哨所への輸送にはおおむね人夫を使用した。
【一、運輸部設置後の業務・第一期】(2月27日より)
強烈な風雪に遭遇すれば途中より逐次退却するも、その荷物を放棄することはなく、漸く進行した。また気力に飽くことなく、勉強な意志をもって任務に配し、至誠の義務の念をもって出役した。その威厳を確実に持っていた。
2月4日、弘前屯営在の輜重兵第八大隊の将校以下58名の応援を得た。
【編成】運輸部長:輜重兵中佐・齋藤長義(1名)、歩兵特務曹長・齋藤直吉(下士1名)
【2月10日付の人員配置変更】
| 配置先 | 階級 | 氏名 | 下士 | 卒 |
|---|---|---|---|---|
| 屯營本部 | 中尉 | 河崎末藏 | 28 | 25 |
| 田茂木野本部 | 少尉 | 佐藤寅松 | 15 | 20 |
| (見習士官) | 特務曹長 | 神尾山孝治 | ||
| 第八哨所支部 | 大尉 | 佐井寅彰 | 20 | 29 |
| 田茂木野支部 | 少尉 | 伊藤三郎 | ― | |
【輸送配當區域(物資集積所の配置)】
物資の集積所を設置し、その配当区域を以下のように定めた。
| 集積所名称 | 所在地 | 配当範囲 |
|---|---|---|
| 屯営倉庫 | 屯営内 | 屯営~田茂木野 |
| 田茂木野集積所 | 田茂木野 | 田茂木野以南各哨所 |
| 大ノ峠営 | 大ノ峠 | 南麓方面 |
物資はまず屯営内倉庫から田茂木野集積所へ輸送し、そこから第八哨所・第十一哨所の集積所へ、さらにその以南の各捜索隊へと分配した。逆順序で後送(使用済み物資の返却)も行った。
この時期に至り、さらに人夫募集規定を設け、常役人夫を召集した。屯営・田茂木野においては常役人夫を置き、各屯営にある田茂木野以南の各哨所に物品の運搬を担当させた。また付近の各哨所間の物資輸送も常置した。屯営から死体停車場あるいは火葬場への死体の運搬もここから行った。
捜索の効果はまだ十分でなく、短日月の業務では終わらないことが判明した。
【三、運輸部設置後の業務・第二期】(4月21日より)
持久的計画のもとに業務を実施することとし、運輸部の編成を実施した。
また従来の配当区域を改め、以下のように変更した。
| 配置先 | 階級 | 氏名 | 下士 | 卒 |
|---|---|---|---|---|
| 屯營本部 | 中尉 | 河崎末造 | 5 | ― |
| 田茂木野支部 | 特務曹長 | 平山多太郎 | 8 | ― |
| 第七哨所支部 | 特務曹長 | 齋藤彰 | 6 | ― |
配当区域は田茂木野集積所を中心に、第七哨所・鳴澤方面、第十四哨所、第八哨所方面をカバーした。
【輸送の状況(一期)】
一期における常役人夫の募集区域は青森・弘前の二市および東津軽郡にまたがり、統一的な管理ができず監視に困難をきたした。
北海道からの出稼ぎ労働者や市町村役場を通じた人夫など、就役は1日か2日限りの者も多かった。
常役人夫が次第にその業務に習熟してきたが、多額の費用を要したため、不利益な人夫を漸次解雇するに至った。馬に業務を移行し、大組織として輸送を維持した。
3月下旬以降は馬橇(ばそり)を使用。12日以来、積雪が漸次融解し馬車を使用できるようになった。また死体の運搬も背負いや馬車で行った。
【四、運輸部設置後の業務・第三期】(5月下旬より)
捜索業務の持久計画を改正した。田茂木野運輸支部は4月下旬に至り、屯営内の運輸本部は兵站部に合併されることとなり、臨時経理部の配下に入った。
業務は全遭難地域に至る物品の取扱いおよび輸送を掌り、その他常役人夫の取扱い等すべて運輸に関する一般業務を担当した。
この時期の運輸本部将校は時々交代したため、特に姓名を記載せず。5月中旬以降はさらに縮小し、5月20日には田茂木野支部のみとなった(将校1、卒3名のみ)。
常時の捜索間における輸送区域・範囲・輸送方法等については前期と異なっていた。
【傭役人夫員数表】(延べ人夫および馬橇・馬車の員数)
| 時期 | 常役人夫 | 日雇人夫 | 計 | 1日平均 |
|---|---|---|---|---|
| 運輸部設置前期 | 200 | 6,577 | 7,776 | 643 |
| 第一期 | 14,585 | 6,381 | 8,375 | 199弱 |
| 第二期 | 6,259 | 4,585 | 3,300弱 | ― |
| 第三期 | 200 | 259 | ― | ― |
| 合計 | 14,585 | 6,381 | 8,375 | 643/日 |
寄附人夫(無償):延べ約6,200人
使用馬橇:延べ6,576頭(1日平均75頭弱)
使用馬車:延べ105台(1日平均68台強)
【第五、衛生部事項】
一、衛生部員の配置および任務
1月28日、衛生部は捜索隊兵員の衛生治療に従事した。また人夫の患者を収容する施設を設置し、専ら遭難行軍隊の生存者を救護し、かつ捜索隊の患者収容所を設置して捜索隊兵員の衛生事務に従事させた。
【衛生部員の配置(哨所別)】
| 配置場所 | 軍医 | 看護手 | 看護長 |
|---|---|---|---|
| 最前方哨所 | ― | 2 | ― |
| 第八哨所 | 2 | 2 | ― |
| 第十哨所 | 1 | 1 | ― |
| 田茂木野収容所 | ― | 2 | ― |
| 青森衛戍病院 | 5 | 4 | 1 |
各哨所での衛生業務は以下を実施した。
田茂木野収容所では、各哨所における患者の状況に関する診療および衛生事項を調査し、ただちに死体検案を行い検案書を作成した。捜索係とともに死体発見の手続きを了した。
前方哨所では、患者をできるだけ迅速に青森衛戍病院に後送した。天候悪化その他の状況に関してその後送を監督し、かつ迅速に行った。
【青森衛戍病院】
衛生材料を購買し配当した。田茂木野収容所の準備にあたった。
1月29日〜2月2日の間に約150人の収容準備を行った。看護長および看護手数名を配置。2月1日には弘前の第三十一聯隊より軍医5名が来援した。
軍医の繁閑を視察し、第八哨所において約1週間配当して救護業務に従事した。
青森衛戍病院長:陸軍三等軍医正・後藤幾太郎
【捜索隊に配置された軍医一覧】
| 所属 | 官等 | 氏名 | 来青日 | 帰隊日 |
|---|---|---|---|---|
| 山形衛戍病院 | 陸軍一等軍医 | 中原貞衛 | 1月29日 | 2月21日 |
| 弘前歩兵第31聯隊 | 陸軍二等軍医薬剤官 | 阪上野定三郎 | 2月2日 | 3月13日 |
| 青森衛戍病院 | 全 | 小村出其一 | 2月2日 | 2月22日 |
| 青森歩兵第5聯隊 | 全 | 民野鎌太郎 | 1月29日 | 2月20日 |
| 第八師團軍医部 | 全 | 鋼中澤吉三郎 | 2月1日 | 2月20日 |
| 弘前歩兵第31聯隊 | 全 | 五十嵐雄三 | 1月31日 | 4月1日 |
| 青森歩兵第30聯隊 | 全 | 折居橋 | 2月1日 | 3月19日 |
| 輜重兵第八大隊 | 全 | 近岡吉進人 | 1月30日 | 2月22日 |
| 弘前衛戍病院 | 陸軍三等軍医 | 鶏ノ澤 | 2月3日 | 3月14日 |
【二、捜索隊衛生上の状況 ― 廠舎(バラック)】
廠舎(仮設バラック)の構造は大小さまざまで、収容人員も常に一定しなかった。3月1日頃の概略は以下のとおりである。
【廠舎の寸法】
| 種類 | 縦(m) | 横(m) | 気積(㎥) | 平均収容人員 | 1人当面積(㎡) |
|---|---|---|---|---|---|
| 天幕 | 約100 | 35 | 250 | 6人 | 146 |
| 廠舎 | 約2,500 | 1,500弱 | 290 | 20人 | 365 |
※寸法は廠舎により差異あり。積雪の深い場所に建設されたため高さにも差があった。
【天然換気の方法】
廠舎における天然換気は、屋根の蘆莚(あしむしろ)の間隙、周壁と屋根の接合部の空隙、および入口から行われた。吹雪が激しいときは、屋根の蘆莚の間隙を通じて雪が充填し、側壁の中央わずかな部分からのみ換気が行われた。衛生上適当な処置と認められた。
ある廠舎では、昼間時々屋根の外造りの間口を開けて換気を行わせた。内口に差を懸垂し、またある廠舎では直径約80cmの隧道(トンネル)を穿って換気を行った。
天幕の換気は、もともとその幕布の間隙によるものであった。降雪中は外面布と側面布の間隙に白雪が堆積するのを除去しやすく、天然換気が可能であった。
廠舎内では木炭を使用し、節約のために中央に暖炉を設け、約1〜2個の毛布で蓋をして天幕上部の暖温に利用した。ただし廠舎内は暗鬱で、昼間でも灯火が必要であった。
【被服(服装)の状況】
捜索隊の服装は各隊ほぼ同一で、以下のとおりであった。
・綿ネル襦袢・毛布下套 各1、防寒用毛布外套 1、絨外套 1
・藁製手套 1、防寒用毛皮腕着 1、毛糸手套 各1、綿メリヤス靴下 2
・靴 1、藁やす手套 1
身体中で凍傷の発生が最も多い部位は手足であった。そのため全身、特に手足の防寒に注意を加えた。足には藁靴の上に紙および油紙を付け、頭部は藁で覆い、さらに油紙を上に踝部を緊縛した。外套の袖口も緊縛した。
寝具としては一般に毛布を支給した。遭難地の気温はマイナス4度ないし10度であり、捜索初期には運搬の不便もあって毛布は1人約3枚であったが、その後3月1日以降は1人平均5〜6枚を得るようになった。
【給養(食事)】
体内の燃焼作用は旺盛で、大なる体力の減損を来した。空気が寒冷であれば皮膚を刺激し、吹雪の激しい各兵は夜も疑眠(うとうと)のまま寒い寝床に就いた。
食糧は初期においては増給した。2月中旬頃より漸次善良(良好)となった。
【捜索隊の生活状況】
概括すれば、1月28日に捜索を開始してから2月4日~8日の間が最も苦しい時期であった。雪中の露営が続き、廠舎の状況も劣悪であった。特に2月4日以降は天候が猛烈に悪化し、暴雪の侵入を防ぐために寸時も安息を得られなかった。天幕では粉雪の侵入を防ぐことが困難であった。
2月9日頃から2月下旬にかけて徐々に設備が完備し、平常の屯営にいるのと大差なくなった。
捜索に従事した諸隊のうち、患者数は第五聯隊が最も多かった。これは戦友を危難から救い出そうとする誠意から、無理を押して従事したためである。
【三、捜索隊患者概況】
設備不完全な露営時期に患者が多発した。感冒(風邪)が最も多く、次いで呼吸器病、さらに凍傷が続いた。
| 所属部隊 | 新患員数 | 治癒 | 瘴死 | 転亡 |
|---|---|---|---|---|
| 歩兵第五聯隊 | 334 | 305 | ― | 29 |
| 歩兵第三十一聯隊 | 34 | ― | ||
| 歩兵砲兵第八聯隊 | 2 | ― | ||
| 野戦砲兵第八大隊 | 9 | ― | ||
| 工兵第八大隊 | 1 | ― | ||
| 輜重兵第八大隊 | 9 | ― | ||
| 合計 | 346 | 336 | ― | 29 |
【四、生存者の救護および治療】
遭難者のうち捜索隊に救助され入院した者は8名であった。その経過の概要は以下のとおりである。
| 階級 | 氏名 | 発見状況 | 入院・治療経過 |
|---|---|---|---|
| 少佐 | 山口鑒 | 1月31日、大瀧の下流谷底にて発見。四肢凍傷、歩行不能。精神異状なし。 | 2月1日夜入院。2月28日午後9時死亡。 |
| 大尉 | 倉石一 | 発見場所並びに景況(記載あり) | 入院治療。治療の効なく(詳細は次頁) |
| 中尉 | 伊藤格明 | 2月2日、平澤の小屋にて発見 | (次頁に続く) |
| 特務曹長 | 長谷川貞三 | 歩行する力わずかにあり | (次頁に続く) |
| 伍長 | 後藤房之助 | 鳴澤北方にて午前8時に発見。立ったまま精神異状なし。四肢凍傷、歩行不能。 | 2月3日入院治療。 |
| 伍長 | 三浦武雄 | 下肢その他に凍傷 | 1月31日入院。3月21日手術。経過全治退院。精神異状なし。 |
【生存者治療記録(続き)】
| 階級 | 氏名 | 入院日 | 手術・治療 | 経過 |
|---|---|---|---|---|
| 一等卒 | 阿部卯吉 | 3月1日 | 上肢右手中央指・下肢右膝腿部截断 | 良好・全治 |
| 一等卒 | 山本德次郎 | 2月1日(手術3/26) | 左下肢截断 | 手術・回復 |
| 一等卒 | 及川平助 | 2月1日 | 上肢指末節截断・右下肢アキレス腱截断 | 経過良好・全治 |
| 伍長 | 小原忠三郎 | 2月2日 | 四肢凍傷、2月20日手術、右膝下截断 | (記載続き) |
| 二等卒 | 佐々木正教 | 2月23日 | 両下肢大腿中央截断 | 不良・2月25日死亡 |
| 二等卒 | 小野寺佐平 | 2月23日 | 凍瘡、起立不能 | 死亡 |
| 二等卒 | 紺野市次郎 | 2月9日 | 下肢右膝下截断 | 2月27日死亡 |
| 一等卒 | 後藤惣助 | 2月2日 | 四肢凍傷。手の自由あり。 | 比較的良好 |
| 伍長 | 村松文哉 | ― | 左前腕・右下肢中央截断 | (記載続き) |
【第六、死体取扱業務】
編成:大尉・内野秀三郎および五十嵐雄太郎が人員を統括した。
捜索隊死体検案所:第八哨所に設置。30日に業務を開始し、捜索隊が発見した死体を検案した。生存者発見の際は捜索係とともに対応し、平時の入院患者治療とは分離した。
| 哨所 | 階級 | 担当軍医 |
|---|---|---|
| 第八哨所 | 大尉 | (全般統括) |
| 高橋哨所 | 二等軍医 | 柏村・五十嵐雄三・折居 |
| 本多哨所 | 二等~三等軍医 | 内野澤吉三郎・鶏ノ澤 |
【死体の取扱い】
【一、田茂木野死体収容所】
1月30日より業務を開始。捜索隊に随伴する兵卒をもって初期の運搬・検案業務を行った。死体の身元確認が困難な場合、田茂木野に死体検案所を設けて識別を行った。翌31日、以下の通り編成を改めた。
| 階級 | 氏名 |
|---|---|
| 大尉 | 本郷藤四郎 |
| 少尉 | 三神定之助 |
| 特務曹長 | 後藤房吉 |
| 下士以下25名、計29名 | |
4月下旬に捜索業務が縮小され、2月下旬以降はさらに編成を小さくし、第五哨所の検案所と合併した。
【暖屍法(遺体の融解処置)】
2月、直ちに鉄製寝台を田茂木野に送り、炭火をもって遺体を融解した。遺体の融解には概ね6時間ないし12時間を要した。鉄製の台に炭火を置き、適度な温度を維持して毛繊製の蓙台に安置し、遺体が完全に柔軟となるまで行った。その後、被服を改装し納棺した。
【三、屯営死体収容所】
屯営死体収容所は庶務部がこれを兼掌し、委員の中尉・中村中郎に下士以下若干名を付した。第二・第三号の雪覆練兵場を充て、死体を受領した。業務手順は以下の通り。
一、検案書の受領
二、死体が聯隊に到着したとき姓名を確認
三、死亡届書の調査
四、埋葬届書の調製
五、遺族に通知(即日、聯隊長の名をもって筒井村戸籍役場に届出)
六、汽車輸送証明書の調製
七、汽車輸送する死体の員数および有無を青森駅長へ通知
八、死骸掛の下附願を調製
九、汽車輸送の認許と同時に、原籍村役場および遺族に電報にて通知
十、火葬および遺骨の発送
十一、火葬認許者への納骨箱の交付
【遺体の処分区分】
遺族の要求により、以下の3種類に分けて遺骸を処分した。
一、遺族が出頭せず、死体掛員において埋葬するもの
二、遺族に引渡し、汽車輸送するもの
三、死体掛員において火葬に付するもの
【死体引渡手続】
遺族への引渡しは、遺族掛員の手を経て差出した順により毎日午後1時に行った。死体引受願書に記名捺印させ、棺の両面に姓名札を付した。木札に固定し、白布に納棺して引き渡した。凍結した死体は同様の手続きで融解し、全身が柔軟になった後に火葬用棺に納め、白布で覆い姓名を記した。日本鉄道会社の好意により、遺体の汽車輸送は無料とされ、大いに遺族の便宜が図られた。火葬後の遺骨は小包便にて原籍地の町村役場宛に送付した。
【身元確認困難事例】
死体の取扱いはこのように慎重を期したが、当初は凍結のために姓名の判別が困難であった。
5月10日、松森村付近の駒込川岸に漂着した遺体が発見された。9名の中には全く裸体の者もおり、顔面も変敗(腐敗)して姓名の判別が困難なものがあった。
遺族との確認作業では、裸体で身体の凍傷が激しい場合でも、身長・弾盒(弾薬入れ)付帯革・服の綴草・顔形・白歯虫歯などの特徴から身元を特定した。
第五中隊一等卒・澤藤は右脚の特徴から確認。兵・佐藤勝治は戦友の証言により確定した。
5月22日、実父を招いて実験(照合)を行い、火葬に付した後に遺族を招いて受領させた。さらに新たに発見された死体は再調査を行った。
第六中隊伍長・佐藤哲治の死体は再発見により確認された。
5月28日が最終発見となり、すべての業務の終局を見るに至った。
【第七、家族掛設置業務】
一、家族掛設置当時の状況
1月27〜28日頃、行軍隊遭難の事実が知られると、電報により事情が広く流布し、遠近の人々が驚愕した。聯隊は応答に追われ、書簡をもって遭難者の名称を通知した。29日には郷里へさらに遺族方への依頼を行い、岩手県・宮城県知事にも打電した。30日に至り、「家族掛」と通称される組織を設置した。
家族との連絡事務が急増し、1月30日より家族および慰問者の来訪が漸く増加した。
【家族掛の編成】
委員座長:歩兵少尉・宮原正人
【一、委員担任事務】
(一)家族掛の業務:
・家族および慰問者の宅または宿泊所を訪ね、時々慰問し家族の痛恨を慰籍(慰める)
・生存者に対しては入院後の経過を迅速に通報
・死体発見および死体の屯営到着を速やかに通報
・家族の県事(行政手続)に関する便宜を図る
・家族および慰問者の宿泊所の便宜を図る
・万般にわたり家族の意見を取扱う
・死体処分に関する死体引渡書・受領証・貯金受領証・埋葬料受取の代書およびその手続きの指示
・死体引渡のほか、常に家族の宿泊についても配慮した
遭難者家族および慰問者のための懇談所を将校・兵の会食所の一部に設け、屯営付近に宿泊設備も準備した。
遺体の汽車輸送は日本鉄道会社の好意により無料とされ、大いに遺族の便宜が図られた。
(二)聯隊区司令部
軍隊と地方との交渉連絡に任じ、委員事務を補助した。家族宿泊者の取扱いおよび恩給請求に関する説明を行った。
(三)県出張員
青森県参事官および県庁書記は1月31日より出張し、家族掛と連携して聯隊と地方との連繋事務にあたった。
家族掛との意思疎通を図り、掛員が家族に関する事項をさらに説明した。発生した事項は細大となく(大小を問わず)郡市町村長に通信した。
2月3日、家族および慰問者の応接所を設け、掛員の説明が至らないところを補うため心得書を掲示した。
【二、諸規定並びに注意事項】
一、死体を受領した者は、死体のまま持ち帰るか、火葬のうえ持ち帰るか、停車場(駅)まで又は火葬場まで搬送するかを区別し、掛員に申し出ること。
一、死体引渡時限は概ね午後1時とする。
一、死体の汽車輸送および火葬は無賃(無料)とする。
一、死体受領の際は聯隊において十分に死者の相貌を確認したうえ、相違の有無を確認すること。
一、死体引渡しの際の遺品については、その希望どおり掛員が指示する。
一、私物は当然掛員を通じて受領すること。郵便貯蓄銀行の有無は所属中隊に確認すること。
一、遺族運搬料および家族乗込用列車の発車時間は黒板に掲示する。
一、死体を火葬に付す場合は死体掛員から委細聞き取ること。
一、死体扶助料・給助金の請求手続きは当掛員を通じて所属中隊事務室にて行うこと。
【官舎宿泊規定】
陸軍官舎の空き家3戸を遺族の宿泊所に充て、寝具および食事を給した。
一、官舎宿泊を希望する者は、県ごとに県庁または郡書記に申し出ること。
一、宿泊者は必ず取締者をあらかじめ定め、他の宿泊者にも告げ、警戒すること。
一、専ら火気に注意し、火災の虞なきよう警戒すべし。
一、宿泊者には食事・寝具を貸与する。
【四、家族応接順序】
遭難者の家族が来着し、死体発見の時に至れば、千差万別の対応が必要となるが、以下の順序で応接した。
家族が応接所に出頭すると、家族姓名簿に記入し、死体処分に関する希望を聴取した。あらかじめ調製してある死体引受願書に記名捺印させ、これを庶務部死体掛に移した。同時に遺骨容器を用意し立会委員を付した。
控所にて休憩させ、掛員が懇切に遺族を慰問した。僧侶による読経も行い、時には捜索隊の帰営後に遭難地を遙拝する機会も設けた。
【五、情況の変遷】
1月末から2月15〜16日に至る間が家族掛事務の最繁忙期であった。1日に新来訪者は56人ないし14〜15人、家族宿泊者は34〜48人に達し、応接件数は延べ1,853件に及んだ。
その後、捜索業務が漸く効果を奏するも、容易には発見に至らず、持久の策を講じた。融雪の時期に至れば、家族および戦友の決心と熱誠をもって発見できる日を待つに至った。
各県に対して出頭を促し、死体又は遺骨を家族に送付した。県出張員も3月初旬までは滞在の必要があった。
県出張員の引揚げ後、以下の事項を委託した。
一、死体が発見されるたびに、死者の姓名・発見場所および月日を死者の所属県庁へ通報すること。
二、死体を遺族に交付する際は、所属県の郡市役所へ死体到着停車場および時刻を打電すること。
三、死霊処分の顛末を打電すること。
【六、地方出張員】
事変発生以来、地方出張員として特に家族掛の業務に助力した者は以下のとおり。
| 所属 | 役職 | 氏名 |
|---|---|---|
| 聯隊区司令部 | 司令官・歩兵中尉 | 松原曉東三馬 |
| 青森県 | 参事官 | 青木 |
| 岩手県 | 参事官 | 鶴見 |
| 宮城県 | 参事官 | 永井金太郎 |
| 青森県属 | 書記 | 山口左吉・小嶋英雄 |
| 岩手県属 | 書記 | 畠山德三郎・小池五・今泉良次郎 |
| 宮城県属 | 書記 | 庄子敬次郎 |
| 登米郡 | 書記 | 佐藤直治 |
| 栗原郡 | 書記 | 米原 |
【七、遭難者家族の感情】(本吉書記の記録による)
思うに、遭難者の情報が次々と胸に迫り来るなか、父兄親族が蒼皇(あわてふためいて)青森に至り、屯営に到着した時には、物資材料の集積・輸送・人夫の徴収・その他内外の関係事務が繁忙を極めていた。捜索事業の経営は天候との全力の戦いであった。
家族は驚愕・悲痛・憤懣の念に包まれていた。焦心努力しつつ、ただ如何にして死体を発見できるか、まだ発見されないのか、死体引渡しの準備はどうなっているのかと、捜索隊の交渉に差し迫った。
指揮の当否に至っては如何ともし難い事情があり、家族は不満を述べることもあったが、やがて搜索の困難さを知り、家族掛の委員に過激な言葉を浴びせることもあった。しかし捜索時間の長さと困難さを理解するに至り、漸くその不安の念を消すことができた。
2月2日、宮本侍従武官が来訪し御菓子を授けたことは、その効果が大きく、遺族の心情を慰めるのに大いに役立った。生存者の慰問とあわせ、遺族への実況報告が貫徹された。
東北の純朴・真摯で節義に富む健児の父兄親族には、碑恩優渥(天皇の温かい恩恵)の書が下賜され、大きな慰めとなった。
【第八、義捐金取扱業務】
2月3日、凍死としてその惨禍を怖れていたものが、今や公務に殉じた義死として、葬式を行う方針が確定した。死体引渡しは家族の望みに随うこととし、日本鉄道会社の協力により無料とした。
今回の遭難に関して、全国の官民はもちろん外国人に至るまで、遭難者の悲壮烈なる行動を称え、あるいは生存者への慰問として金品を寄贈した。寄贈者の数は膨大で、金額も巨額に達した。
寄贈金品の到達が頻繁になったため、取扱委員を組織した。
【一、委員組織】
| 役職 | 階級 | 氏名 |
|---|---|---|
| 委員長 | 大尉 | 和田・木村宣明 |
| 委員 | 中尉 | 中村調中 |
| 委員 | 二等軍医 | 山口其一 |
| 助手 | 下士若干名 | |
【委員の職務分掌】
二、委員長は義捐金取扱に関し全般の責任を負い、業務全般を統督する。
四、委員(大尉)は聯隊副官に義捐金に関する業務を統督する。
五、委員(中尉)は文書を掌る。
六、委員は義捐金および寄贈物品の出納保管に服務する。
七、委員(軍医)は義捐金および寄贈品の受領証の発送を掌る。
八、助手は委員長の命を受け庶務に服する。
【義捐金分配手続委員会】
| 役職 | 氏名 |
|---|---|
| 盛岡聯隊区司令官 | 松原曉三郎 |
| 青森衛戍病院長 | 後藤幾太郎 |
| 法務官 | 山本 |
| 青森県参事官 | 永井岩 |
| 岩手県参事官 | 鶴見金太郎 |
| 宮城県参事官 | 永井 |
| 経理部長 | 長林川謙太一郎光郎 |
2月17日、遺難義捐金分配手続を議するための委員会を設置した。
【義捐金総額】(明治35年7月11日調査時点)
| 区分 | 金額 |
|---|---|
| 普通義捐金 | 88,411圓16銭9厘 |
| 特定義捐金 | 947圓15銭1厘 |
| 小計(聯隊直接取扱分) | 84,700圓15銭1厘 |
| 第八師団司令部より回送分 | 546圓38銭35銭2厘 |
| 合計 | 145,629圓38銭1厘 |
義捐金は第五十九銀行に預金し、3〜4日ごとに決算した。
寄贈を仲介した新聞社:北海道新聞、秋田日々新聞、岩手日報、山形新聞、國民新聞、河北時事新報、青森新聞
【五、特志人夫および寄贈物品】
特志(志願)人夫:延べ4,369人
| 品目 | 数量 |
|---|---|
| 巻煙草 | 149,000本 |
| 赤正宗旗酒 | 3ダース |
| 菊酒 | 10ダース |
| 米菓・煎餅 | 松入千枚+6袋 |
| 菓子・卵 | 275個 |
| 蜜柑 | 675個 |
| 林檎 | 385個 |
| 章魚缶詰 | 1,385個 |
| 綿麻帯 | 10箱 |
| 印刷物 | 245冊 |
【義捐金第一回分配】(明治35年3月5日迄の到着分)
総額:金46,612圓35銭3厘
【義捐金第二回分配】(明治35年5月31日迄の到着分)
総額:金47,730圓4銭6厘
分配先:聯隊にて直接分配、青森県・岩手県・宮城県へ送金委託分配
【生存者に対する義捐金分配率】
負傷の軽重に応じた分配係数(千分率)で配分された。
| 氏名 | 階級 | 出身県 | 分配係数 |
|---|---|---|---|
| 及川平助 | 一等卒 | 岩手 | 36/1000 |
| 山本德次郎 | 一等卒 | 青森 | 41/1000 |
| 後藤惣助 | 一等卒 | 全 | 86/1000 |
| 阿部卯吉 | 一等卒 | 岩手 | 41/1000 |
| 小原忠三郎 | 伍長 | 全 | 52/1000 |
| 後藤房之助 | 伍長 | 宮城 | 185/1000 |
| 村松文哉 | 長 | 宮城 | ― |
倉石大尉ほか4名へは直接交付し、残額は後次に組み入れた。
【第七章 遭難者の栄誉】
第一、叙慮(天皇の御配慮)
明治35年1月26日、歩兵第五聯隊第二大隊長・少佐山口鑒以下210名の遭難の公報が上奏されるや、天皇は恐れ多くもその状況を叡覧(御覧)になり、遭難者を憐れみ給うた。これにより遭難地へ宮本侍従武官を派遣し、生存者慰問を命じられた。
【天皇・皇后の御配慮】
天皇は遭難者の状況を逐一御覧になり、侍従武官を派遣して生存者を慰問された。皇后陛下もまた特に御心を寄せられ、御菓子料を下賜された。遭難将校以下士卒を「憫然(あわれ)」として遺族への慰問を貫徹された。
【侍従武官・東宮武官の派遣】
2月5日、東宮武官・陸軍歩兵大尉伯爵清水谷實英が来営。翌6日、立見師団長を訪い東宮武官としての法話を行った。
7日、再び田茂木野に至り捜索隊の状況を電奏(電報で天皇に報告)した。第八哨所に至り詳細に巡視した後、帰京して復命した。
【皇后陛下からの祭祀料】
4月25日、皇后陛下より今回遭難死亡の将校以下の遺族に対し、特に祭祀料が下賜された。
【遭難地追悼祭】
田代に遙拝所を設け、大祭を施行した。遭難地を深く巡視し、遭難者の忠魂を弔った。
【帝国議会の対応】
帝国議会もまた深く遭難の事態を重視し、捜索救護の費用として追加予算を協賛した。さらに省内に委員を設けた。
遭難殉職者への一時金:将校1,500圓、下士卒600圓
【記念碑の建立】
遭難殉職者の忠魂を弔うため、八甲田山麓に大記念碑を建立し、銅標(銅の標識)を設置した。後世に遺さんとする崇高な意志のもとに建立された。
【遭難殉職亡者人名簿】
以下は原本に記載された遭難殉職者の名簿である。将校から兵卒まで、全199名の氏名・階級・位勲・本籍地が記録されている。
■ 将校(士官)
| 氏名 | 階級・位 | 本籍地 |
|---|---|---|
| 山口鑒 | 少佐・正六位勳六等勳五級 | 東京市下谷区下谷町 |
| 興野辯二 | 大尉・正六位勳六等 | 龍地県(判読困難)※本文中では「興津大尉」と表記。名簿と本文で表記が異なる。 |
| 神成文吉 | 大尉・正六位勳六等 | 秋田県平鹿郡沼館町 |
| 中橋義信 | 少尉・從七位 | 山形県北村山郡元馬勢町 |
| 水野忠宣 | 中尉・從五位 | 青森(華族) |
| 鈴木守 | 少尉・正八位 | 神奈川県鎌倉 |
| 永井三太郎 | 陸軍三等軍医・正八位 | ― |
■ 准士官・下士官
今中顕、小山田來君、佐藤勝新、小泉繁次郎、渡邊金石衛門、佐野之助、千葉文之助、三浦武雄 ほか
■ 伍長以下(兵卒)
以下4ページにわたり、全伍長・一等卒・二等卒の氏名・本籍地が一覧で記載されている。出身県は主に岩手県・青森県・宮城県の東北三県で、これは歩兵第五聯隊の徴兵区域に対応している。
各人の本籍地は村名・番地まで詳細に記録されており、遺族への通知と恩給請求の基礎資料となった。
■ 名簿に含まれる主な氏名(4ページより抜粋)
【p.234】佐藤卯一郎、作山初五郎、鈴木三喜之助、昆野清男、小田嶋鐡次郎、小野寺館三郎…
【p.235】近藤留三郎、小野寺熊治郎、吉田興四郎、鈴木清三郎、高橋源三郎、高橋彦三…
【p.236】藤原得五郎、大木膳左工門、伊藤伊勢次郎、安部長壽郎、石田仙右工門、千田權治…
【p.237】猪狩勘治、栄山得治、櫻井龍造、浅野佐吉、宮原篤三郎、及川厚…
【p.238】大場福太郎、柏福太郎、千葉宗喜平、田村牟兵衛、佐藤竹蔵、高橋源太郎、澤藤兼松…
【遭難殉職亡者人名簿(続き・完結)】
Part 6から続く一等卒名簿の後半、および二等卒名簿を収録。全199名の名簿がここで完結する。
■ 一等卒(続き)― 主な氏名
紺野作治、谷原忠左工門、佐々木留吉、大松庄七、及川長三郎、佐藤良平、佐々木清太郎、小笠原辰治郎、古川花藤德三藏、高橋定八、高橋多藏、菊々木忠太郎、長内鵜三郎、伊勢卯之幸、千葉卯清松、武田長次郎、小笠原孫之垣…
千葉五右衛門、菊池傳吾、金池陽悟、小野寺市兵衛、山田憲之遂、武田清五、橋脇卯三吉、高橋千代治、富澤兼松、吉田六兵衛、遠藤松蔵、木村松兵蔵、菅野慶三郎…
■ 陸軍歩兵二等卒
武田仁八、岸本多藏、照井永次、吉田小右衛門、後藤三郎、太田四郎、佐々木霜吉、石神小吉、小原忠松、阿部房松、菅原反四藏、佐藤久右衛門、白取兵衛、瀬川利吉、黒澤兵衛、紺野市治郎、芳賀安平、金野信太郎、齊藤幸太郎、石塚一二三 ほか
以上をもって、遭難殉職全199名の人名簿が完結する。
【附録 緒言】
過般不幸にして遭難の事があり、二百の戦友が雪中に埋もれるを思えば、その当時の情況に至れば惻然(いたましく)として痛哭せずにはいられない。
その遺骸を検するに際し、勇士が死の間際に発揮した精神の数々を見出した。あるいは武勇であり、あるいは上官を救う忠義であり、人を悲しませると共に、その最後の美しさに感嘆措く能わざるものがあった。各人が平素の用意と軍隊精神教育の賜物であることを示している。
死は一面において已然(避けられぬこと)であるが、その最後の美しさは百世の後までその徳を称賛せしめるものである。平時精神教育の効果が歴々として見るべきものがある。
ここに列挙するのは、二、三の生存者の証言、および捜索隊が混乱の際に士卒の心の糸に触れた事象を拾集し、精神教育の一助とせんがためである。ただ恨むらくは、十分に蒐集できなかったが、敢えてその芳名を千載に伝えんとするものである。
陸軍歩兵二等卒軽石三蔵は岩手県和賀郡立花村の農家の出身。明治33年12月に徴兵され歩兵第五聯隊第六中隊に入営した。身体強健、性質も良好で体格も優等であった。
1月(行軍中)、陸地測量部班長・外谷大尉と共に遭難地にあった。軽石三蔵は大尉の足を温め、看護を続けたが、ついに共に殉死した。
捜索隊が澤谷の底に遺骸を発見した時、軽石三蔵は大尉を庇うような姿勢で死んでいた。その姿を見た捜索隊の士卒は涙を禁じ得なかった。
嗚呼、軽石三蔵の忠義は極まれりと云うべし。
行軍第二日、天候は激変し厳寒酷雪、風は怒号した。一隊は路を失い、終日将卒共に困憊した。
一等卒山本德次郎は、倉石大尉が危機に瀕した際、自らの身を顧みず大尉を救おうとした。25日午後、天候は依然として狂暴で、一隊は混乱の極みにあった。
山本德次郎の熱誠は賞するに余りあり、この危急の際における献身は崇高であった。
雪中行軍第二日、すなわち1月24日、歩兵第六中隊二等卒石神清吉は、戦友営原長四郎の手足が凍傷に侵されているのを見て、その情を禁じ得なかった。
営原を後方に置き去りにすることができず、隊長を背負いその後方について進んだ。
行軍第三日(1月25日朝)、第二露営地を出発し帰営の途についたが、不幸にして帰路を発見できなかった。馬立場直南約300メートルの樹下にて、第十中隊の者が次々と倒れた。倒れた者を途中に棄てることができず、ついに身体が膨張して凍死した。2月8日、捜索隊により死屍が発見された。
1月26日午後、生存者十数名を率いて崖の上に横たわり一夜を徹した。28日、南野長次郎は少佐の下にあって倉石大尉と共にあった。
絶壁を下り、駒込深谷の蛇ノ木沢にて数十尺の崖に至った。河岸に下り、流勢は急で退くことも難しく、岩上より踏み込んだ。
倉石大尉の前に立ちはだかり、今泉少尉に一杯の水を請うた。大尉は決然として水を飲ませ、伍長もまた決心した。水深は腰部に達し、「高歳(万歳)」を唱えて水中に投じた。
1月24日、行軍隊は猛烈な天候に圧倒され悲惨な状況に陥った。戦友互いに勧め合い、患者看護・死者の搬出を行ったが、午後に至り凍傷者が続出した。
伍長(宮城県栗原郡松倉村の人、明治33年12月入営)は、貴重な器具を捨てることに忍びず、死地に至るまで携帯し続けた。その志の美しさを称え、使命を帯びた者の覚悟を示すものであった。
この時、第五中隊一等卒吉田は進路に遺棄せられた状態にあった。中尉は自己の凍傷も甚だしかったが、部下を見捨てることに忍びず、5個の十字銭を放置してあるのを発見し、伊藤中尉は己の身を忘れて部下の救出に当たった。
身体の限界に至り止むを得ざるに至って止んだが、その志の甚だ美なることを賞すべきである。
25日朝、第二露営地を出発するにあたり、多くの者が凍傷に罹り銃を携帯する能力を失った。しかし以下の者たちは、武装整然と銃を手にして最後まで整えていた。
上等兵:大村馬松兵衛
一等卒:芳賀卯一郎、木村松兵衛、小笠原清次郎
行軍第三日、午前3時出発して帰営の途についたが、帰路を発見できなかった。鳴沢営地に至り、中野大橋・永井軍医らが次々と倒れた。
この状況の中、高橋(第十中隊伍長)は自ら斥候(偵察)を志願し、山口少佐に報告した。午前11時頃、曹長佐藤勝邢、小山らと共に復路の発見に尽力した。
渡邊軍曹以下12名が斥候として派遣された。
宮城県本吉郡気仙沼町出身、第十中隊伍長高橋他大一。
4名の生存者の中に第5名を加え、駒込方向より田茂木野の左方へ向かい村民に報告した。
中尉が全絶命した時、従卒庄右衛門および清右衛門は終始侍護して已まなかった。嗚呼、中卒として殉死したもの、従卒小野寺もまた殉じた。
1月24日、田代より風雪烈しく、凍寒冷淋漓として歩行は最後に困難を極めた。
中隊伍長橋村文藏は倒れた者をよく扶助し、その銃を担いだ。第三中隊伍長後藤房之助は先頭にて兵を率いた。
一隊に編入され第八中隊に入った後も、戦友を愛すること切なり、その友情の厚さは共に死に就くほどであった。
嗚呼、伍長は大樹の下において友情の厚さのままに、戦友を抱護して死んでいた。
悲惨凄絶なる行軍隊は1月25日、第二露営地において困憊の極みにあった。岩手県江刺郡羽田村出身、明治32年12月入隊の者は、教育期間中常に首席を占め、下士を志願していた。困憊の極みにあってもなおその職を尽くした。
4月23日、捜索隊は馬立場直南約300メートルの樹下において第十中隊伍長高橋他一の死屍を発見した。
身体を屈して風を防ぎ、霜吉の上方に伏臥していた。伍長はまず大樹の下に西面し、身体を抱えて共に倒れた状態であった。吹雪を防ぎ、かつ美跡を残して後の人に示すに至った。伍長は己を犠牲にしてその姿を保っていた。
看護長櫻井龍造(宮城県栗原郡松倉村の人、明治34年12月入隊)。
1月30日、捜索隊が永井軍医の遺体付近にて櫻井龍造の死体を発見した。捜索隊の悲境に沈淪する中、己の身を忘れ永井軍医の救護に尽力した姿のまま発見された。
1月27日、救護隊が大瀧平に至った時、鈴木少尉および後藤伍長が一群の兵を先頭に率い、雪中に佇立してその任を果たす如くあった。
伍長は田茂木野の民に知らせ、聯隊に報告するべく外空(外部)を尽くした。三人は決死の覚悟で大尉を偵察し、是に於いて伍長は善く大任を全うした。
第八中隊、伍長(宮城県栗原郡松村の人、明治31年12月入営)。
行軍第二日、風雪狂暴にして酷寒、精気は全て費やされ、数時間かけてわずか七八十間(約130〜150メートル)を進行するのがやっとであった。
歩々艱難、幾多の辛酸を経ても、従容として重荷を負い続けた。数日間食を摂らず精気を尽くしながらも、なお従容として荷を負い続けたのである。
行軍隊が既に悲境に沈淪する中、2月2日、捜索隊が金堀にて遺体を発見した。自己の凍傷をも顧みず戦友の救護に尽力し、永井軍医の看護に最後まで当たった。
衛生員・佐藤看護手もまた、己の身を忘れて看護に尽くした。飢餓が凍傷を誘発したとされ、食糧の欠乏が体温維持能力を奪い、凍傷を加速させた医学的事実を指摘している。
以下は遭難者の逸事ではないが、その概略を記述する。軍人以外にして特に捜索業務に尽力した者について。
1月26日、捜索隊を田茂木野の村民が派遣するにあたり、最も尽力したのは幸畑および田茂木野の村民であった。村民総代として幹旅川村連作は分隊を編成した。
27日より大捜索を実施。28日より駒込谷に入り、断崖は延長数里に及んだ。捜索地域は広袤一里以上で、山河を踏破した。
死体190余体の発見のうち、村民が河川捜索隊を編成して発見に寄与した数は最も多かった。
行軍隊遭難の報を聞き、聯隊長は一刻も速やかにその蹤跡を確かめ死体を発見すべく、あらゆる手段を講じた。
【北海道からの志願者招聘】
北海道の人々は勇悍(勇敢かつ強靭)にして、かつ寒気・積雪に豊富な経験を有していた。参謀長に同意を得て、北海道庁振国部を通じて人材を招聘した。
村岡格(森村医師)の斡旋により、以下の者たちが志願した。
坂是松從宇三郎、板木力松、明日見米藏ほか、落部村開拓の者たち。
【2月10日、到着と捜索業務従事】
2月10日をもって北海道から到着し、捜索業務に従事した。東北地方の積雪は常に数尺を超え、北海道の人々の予想をも超えるものであった。
【北海道志願者の装備】
彼らの装備は独特であった。
綿入一枚を着し、股引を穿ち、麻製脚絆を用いた。足には鹿皮もしくは特製の履物を穿き、いわゆる「アッ(アットゥシ=アイヌの樹皮衣)」と称するものを被った。身体は軽く敏捷にして、活き活きと山野を踏破した。
【捜索への献身】
隊長はその労を労い、捜索の命を下した。彼らは泰然として恐れず、積雪のなかに入った。
「明治維新以来、新地北海道に渡り天恩に浴した身として、今回の不幸に際し報恩の誠を尽くさん」と述べ、200余名の遭難者を悼み、搜索の命を受けて泰然として任に就いた。
子孫に及ぶまでこの報恩の志を忘れず、天の幸化に浴することを願い、駒込河谷の捜索に任じ独立して事に従った。
【捜索活動の詳細】
2月25日、北海道志願者は激しい崖を降り、河水を越え、終日勤励して疲労をも顧みなかった。陸軍歩兵少尉三神少尉と共に捜索に従事した。
彼らは勇壮にして身体強健、危険を冒して渓谷の間を探索した。寒気が益々厳しくなるなか、渓水を渡り渓谷の流れを奔走した。
【志願者の構成】
志願者の中には幼年者も含まれていた。碓宇次子、勇吉三郎、板木力松の家族幸ら、父兄に従い山中を踏破した。小児であっても壮年者を凌ぐ勇気を示した。
中村木岡太郎、大翊(木熊を狩る)など、北海道での狩猟経験を活かした捜索を行った。
【捜索期間と成果】
4月中旬に至り、捜索の最終段階に達した。両岸にて発見された遺難場所を校挙し、一行は4月19日に至るまで67日間連続して捜索に従事した。行軍隊の遺留武器・装備等も回収した。
【感謝と褒賞】
聯隊は厚くその労に報い、以下の待遇を行った。
・隊長の名をもって各人に感謝状を贈呈
・増給を行い、酒は嗜好に合わせ一日約一升を一人に与えた
・金五十銭の褒賞金を与え、三月上旬には辨問次郎・有佐らに特別の待遇を行った
・聯隊長の名をもって各人に感謝状を贈った
【北海道志願者の帰還】
三神少尉の報告により、志願者たちを市内に案内し、官衙(役所)・兵営の状況、市街の光景を観覧させた。彼らは感泣し、ひたすら待遇の厚きを謝した。
21日、函館行きの便船により帰還した。