歩兵第五聯隊遭難始末並附録

全文書き起こし・現代語訳
原本:歩兵第五聯隊 編『歩兵第五聯隊遭難始末並附録』昭和3年再版
国立国会図書館デジタルコレクション(pid/13121332)
Part 7 ― 本文頁230〜238 + 附録頁1〜31
20頁
収録ページ(見開き)
p.230–238 +附録
原本対応頁
附 録
殉職者美談・村民尽力
全16話
個人エピソード+附随

Part 7の主要内容:遭難殉職亡者人名簿(続き・完結)+附録全文。附録は緒言に続き、遺体発見時の状況や生存者証言から再構成された殉職者の個人エピソード16話を収録。「死シテ猶上官ヲ庇護ス」「己レチ捨テ上官チ救フ」「戦友ノ屍チ貫フテ行ク」「勇躍水ニ抄シテ血路ヲ開カントス」「貴重ノ器具捨ルニ忍ビス」「死シテ猶其部下チ愛ス」「武器ヲ愛スル一切ナリ」「奮テ斥候ヲ志願ス」「死以テ上官ニ奉ズ」「戦友チ愛スルコト切ナリ」「困憊ノ極猶其職チ盡ス」「潔キ最後」「死シテ餘榮アリ」「雪中ニ佇立シテ善ク大任チ全フス」「從容重荷チ負フテ驚ル」「飢餓ハ凍傷チ誘發セン」+附随「村民ノ盡力」。

遭難殉職 亡者人名簿(続き・完結)
【p.230-231:一等卒名簿続き(Part 6より継続)】 官等級位勲:陸軍步兵一等卒 谷藤德太郎 花籠三藏 古持要言 小笠原辰治郎 小笠原連次郎 菊地留吉 佐々木留吉 菅原忠左衛門 大松庄七 及川長三郎 佐藤良平 及川 厚 佐々木清太郎 紺野作治 菅原忠左衛門〔?〕 高橋多藏 高橋定八 藤地鑒八 菊池忠太郎 佐々木淺治 長内鵜三郎 伊勢卯之幸 千葉卯清松 武田長次郎 小笠原孫之垣 朝倉豊治 【p.232-233:一等卒名簿続き】 千葉五右衛門 菊池傳吾 菊池陽悟 小野寺市兵衛 山田憲之遂 佐々木乙三郎 小野寺清太郎 武田清五 橋脇卯三吉 高橋千代治 内川厚〔■〕 佐藤專三郎 富澤兼松 吉田六兵衛 遠藤松藏 高橋兵衛〔?〕 木村松兵藏 菅野慶三郎 千葉庄三七 小野寺庄右衛門 鈴木清三郎 加藤左衛門 後藤八五郎 猪俣良太 小野寺辰之進 【p.234-235:一等卒名簿→二等卒名簿】 小野寺善四郎 長谷川榮四郎 千葉春松 千野春太七〔?〕 水根市太郎〔?〕 藤根正〔■〕 佐々木正敬〔?〕 佐池德三郎〔?〕 菊池德三郎〔?〕 南舘長次郎 藤川善太郎 佐々木榮太郎 高橋長藏 高橋多吉 輕石千藏 公下千松〔?〕 官等級位勲:陸軍步兵二等卒 武田仁八 岸本多藏 吉田小〔■〕 照井永次 後藤三郎 太田四郎 佐々木霜吉 石神小吉 佐々木清吉 千葉長四郎〔?〕 長谷川榮四郎〔?〕 【p.236-237:二等卒名簿完結】 小原忠松 阿部房松 菅原辰四藏 菅原辰太郎 佐藤久右衛門 白取兵衛 瀬川利吉 佐藤兵衛助〔?〕 黒澤慶助〔?〕 菅原長之遂〔?〕 紺野市治郎 佐々木善吉 小笠原千太郎 佐藤卯一郎 芳賀安右衛門〔?〕 金野信太郎 藤野政右衛門 菅原卯一郎 齊藤幸太郎 三田市右衛門 佐野善吉〔?〕 清地善四郎〔?〕 氏家善太夫〔?〕 石塚一二三 【p.238:二等卒名簿 最後】 伊藤大右衛門 佐藤吉治 千田重藏 石川善四郎

【遭難殉職亡者人名簿(続き・完結)】

Part 6から続く一等卒名簿の後半、および二等卒名簿の全員を収録。全199名の名簿がここで完結する。

■ 一等卒(続き)

谷藤德太郎、花籠三藏、古持要言、小笠原辰治郎、小笠原連次郎、菊地留吉、佐々木留吉、菅原忠左衛門、大松庄七、及川長三郎、佐藤良平、及川厚、佐々木清太郎、紺野作治、高橋多藏、高橋定八、藤地鑒八、菊池忠太郎、佐々木淺治、長内鵜三郎、伊勢卯之幸、千葉卯清松、武田長次郎、小笠原孫之垣、朝倉豊治…

千葉五右衛門、菊池傳吾、菊池陽悟、小野寺市兵衛、山田憲之遂、佐々木乙三郎、小野寺清太郎、武田清五、橋脇卯三吉、高橋千代治、佐藤專三郎、富澤兼松、吉田六兵衛、遠藤松藏、木村松兵藏、菅野慶三郎、千葉庄三七、小野寺庄右衛門、鈴木清三郎、加藤左衛門、後藤八五郎、猪俣良太、小野寺辰之進…

小野寺善四郎、長谷川榮四郎、千葉春松、南舘長次郎、藤川善太郎、佐々木榮太郎、高橋長藏、高橋多吉、輕石千藏…

■ 陸軍歩兵二等卒

武田仁八、岸本多藏、照井永次、後藤三郎、太田四郎、佐々木霜吉、石神小吉、小原忠松、阿部房松、菅原辰四藏、菅原辰太郎、佐藤久右衛門、白取兵衛、瀬川利吉、黒澤慶助、紺野市治郎、佐々木善吉、小笠原千太郎、佐藤卯一郎、芳賀安右衛門、金野信太郎、藤野政右衛門、菅原卯一郎、齊藤幸太郎、三田市右衛門、石塚一二三 ほか

最後に伊藤大右衛門、佐藤吉治、千田重藏、石川善四郎の名が記され、遭難殉職全199名の人名簿が完結する。

📝 注記:一等卒・二等卒の名前は岩手県・宮城県を中心とした東北地方特有の姓(小野寺、佐々木、千葉、菅原、高橋等)が多く、農村出身の兵卒が大半を占めていたことを示す。「左衛門」「右衛門」「兵衛」等、江戸期の命名慣習を残す名前も多数散見される。〔■〕は原本の印刷状態により判読困難な文字、〔?〕は読みに不確実性がある箇所を示す。
附 録
附錄 緒言 過般不幸ニシテ遭難ノ事アリ二百ノ戰友雪中ニ埋ルヲ想フテ其當時ノ情况ニ至レバ惻然トシテ痛哭セズンバアラズ其遺骸チ索ムルニ方リ勇士ガ死ノ間ニ發揮セル况チ聞キ又其遺骸チ愛スルノ精神ト爲リ或ハ決死難ニ赴ク武勇ト爲リ或ハ上官チ救フノ忠義ト爲リ人チ悲ムト共ニ其最後ノ美ナルニ感嘆措ク能ハザルモノアリテ蓋シ各人平素ノ用意ト軍隊精神教育ノ至レルチ得ンヤ鳴呼死ハ則チ一面已然レド其最後ノ美ナルハ以テ百世ノ下其德チ嘆賞セシメ其平時精神教育ノ效果歴々見ルベキモノアルハ以テ教育者〔■〕嘆賞セシメ其平時精神教育ノ效果歴歴見ルベキモノアルハ以テ列擧スルハ二三ノ生存者ガ危急存亡ノ際眼ニ映シタル所ト搜索隊混亂ノ際士卒ノ心絲ニ觸レタルモノチ拾集シ以テ精神教育ノ一助ト爲サントスル唯恨ラクハ悉ク之チ蒐集シ其芳名チ千載ニ傳フ能ハザル敢テ一言チ附記ス

【附録 緒言】

過般、不幸にして遭難の事があり、二百の戦友が雪中に埋もれるを思えば、その当時の情况に至れば惻然(いたましく)として痛哭せずにはいられない。

その遺骸を索(もと)めるにあたり、勇士が死の間際に発揮した精神の数々を聞いた。あるいは愛する精神であり、あるいは決死の難に赴く武勇であり、あるいは上官を救う忠義であり、人を悲しませると共に、その最後の美しさに感嘆措く能わざるものがある。蓋し各人の平素の用意と軍隊精神教育の賜物であろう。

嗚呼、死は一面において已然(避けられぬもの)であるが、その最後の美しさは百世の後までその徳を称賛せしめるものである。平時の精神教育の効果が歴々として見るべきものがある。

ここに列挙するのは、二、三の生存者が危急存亡の際に眼に映じた事柄と、捜索隊が混乱の際に士卒の心の糸に触れた事柄を拾い集め、精神教育の一助とせんがためである。ただ恨むらくは、悉く之を蒐集しその芳名を千載に伝えること能わず、敢えて一言を附記するものである。

📝 注記:この附録は、遺体発見時の状態や生存者の証言から再構成された個人エピソード集。軍の精神教育の観点から編纂されているが、極限状態における人間行動の一次記録として一級の歴史資料でもある。「二三ノ生存者」は後藤房之助伍長ら11名の生存者を指す。
死シテ猶上官ヲ庇護ス 陸軍步兵一等卒輕石三藏ハ岩手縣和賀郡立花村ノ農家ニ出ヅ明治三十三年十二月徴兵歩兵第五聯隊第六中隊ニ入ル身體强健性質溫良好タレドモ誠ニ熱心ニシテ射撃ハ優等章ノ徽章ヲ授ケラル二日夕興津大尉凍傷重ク官〔ノ〕看護ヲ〔■〕大尉ノ状態ヲ發見ス上官ハ仰向キ三歲ハ大尉ノ足ヲ抱ヒ體ヲ温メタルモノニアリテ存スル者ノ聞ク所ニヨレバ石三藏ハ大尉ヲ抱キテ看護シ大尉ノ足ヲ温メ偶々共ニ殉死シタル陸地測量部班長外谷大尉寫眞ヲ携ヘテ遭難地ニ在リ現場ニ 終ニ共ニ殉死セル看護ヲ〔■〕大尉ノ状死ヲ發見ス上官ハ仰臥三藏ハ其側ニ伏シテ大尉ノ足ヲ溫メタルモノナリ嗚呼澤谷底ニ遺骸ヲ發見スルニ人共ニ至リテ三藏ヲ見テ感禁ゼズ霧ニ 鳴呼輕石三藏ノ忠義ハ極マレリト云フベシ 己レチ捨テ上官チ救フ 行軍第二日天候劇ニ變リ氣候嚴寒酷雪風怒號一隊路ヲ失シ終日鳴呼將卒共ニ困憊シタリ 三藏ノ畢ヤ極マレリト云フベシ 卒共ニ困憊シ其ノ際一等卒山本德次郎ハ倉石大尉ノ危キヲ見ルヤ奮然トシテ起チ己レチ捨テ大尉ノ爲ニ盡クシタリ二十五日午后ニ至リ天候依然トシテ狂暴一隊始マリ 佐目ク水郎所ニ求メテ特ニ久ノ箸ヲメテ之ニ死スルニ至レリト山本德次郎ト一日ノ功ヲ空シク抛擲スル 志ヲ倉石大尉等ニ扈從シ 佐倉石大尉ニ從ヒ谷底ニ歸リ 嗚呼山本德次郎ノ熱誠ハ賞スルニ餘リアリ
一、死シテ猶上官ヲ庇護ス(死してなお上官を庇護す)

陸軍歩兵一等卒輕石三藏は、岩手県和賀郡立花村の農家の出身。明治33年12月に徴兵され、歩兵第五聯隊第六中隊に入営した。身体は強健、性質は温良にして、射撃は優等章の徽章を授けられるほどの腕前であった。

行軍中、興津大尉(興津景敏)の凍傷が重くなり、輕石三藏は大尉の看護にあたった。大尉は仰向けに倒れ、三藏は大尉の足を抱いて体を温め続けた。陸地測量部班長・外谷大尉も写真を携えて遭難地にあり、現場で共に殉死した。

澤谷の底で遺骸が発見された時、輕石三藏は大尉の側に伏して足を温めた姿勢のままであった。人々これを見て涙を禁じ得なかった。

嗚呼、輕石三藏の忠義は極まれりと云うべし。

二、己レチ捨テ上官チ救フ(己を捨てて上官を救う)

行軍第二日、天候は激変し、厳寒・酷雪・風は怒号し、一隊は路を失い終日将卒共に困憊した。

その際、一等卒山本德次郎は、倉石大尉の危きを見るや、奮然として起ち、己を捨てて大尉のために尽くした。25日午後に至っても天候は依然として狂暴であったが、山本は水を求めて特に久しく大尉に従い谷底に至った。

倉石大尉等に扈從し、大尉に従い谷底に帰り、ついに命を落とした。

嗚呼、山本德次郎の熱誠は賞するに余りあり。

📝 注記:輕石三藏が上官の足を温め続けた姿勢で発見されたエピソードは、遺体の状態から生前の行動を推察したもの。山本德次郎は倉石大尉(第二中隊長)に最後まで従い殉死した。倉石大尉は行軍中に部下と共に駒込谷を彷徨した人物。
戦友ノ屍チ貫フテ行ク 雪中行軍第二日即チ一月廿四日午後歩兵第六中隊二等卒菅原辰四郎ノ手足凍傷ニ罹リ昏顛シテ歩行スル能ハズ戦友二等卒石神清吉友愛ノ情禁ゼズ菅原ヲ負ヒ隊ノ後尾ニ在テ行進スルコト數時疲勞ヲ顧ミズ遂ニ偕ニ行ク 卒共ニ困憊シ其銃ヲ携帶スル能ハズ歩行困難ナリト雖モ戦友ヲ棄テ去ル能ハズ 青森縣上北郡三澤村ノ人明治三十一年徴兵 五中隊ニ入リ身體强壯肢技藝ニ於テ達ス明治三十年二月ニ十月二十餘名ヲ以テ鑑識ヲ得 德次郎ノ志最モ實ナリ後世ノ鑒トスルニ足ル 勇躍水ニ抄シテ血路ヲ開カントス 一月廿六日午後生存者十有餘人ヲ率ヰテ崖ヨリ下ル其際一群ノ鳥崖ノ上ニ横ハリテ一夜ヲ徹ス覺醒廿八日本助ハ下ニ倉石大尉 絕壁ヲ下リ駒込深谷ノ蛇ノ木澤ニ至リテ數十尺ノ崖ニ至ル 能ハズ流勢急ニシテ崖ヲ河岸ニ奔リ下リ驅込深谷ニ岸ヲ澤ノ木澤ニ於テ河原ニ至リ 數百尺ノ此族崖ヲ攀登スル石岩附近ニ於テ下流ヲ下リ進路ヲ誤リ 倉石大尉ノ前ニ至マリ今泉少尉ニ一杯ノ水ヲ請フ大尉決然水ヲ飲マシムル小野寺熊次郎ナリ大尉ハ日ク伍長日ク一決心ヲ 下ル水深或ハ腰部ニ達ス面シ高歳ヲ唱ヘ之ヲ投ジ短ク鳴呼勇敢ナリ
三、戦友ノ屍チ貫フテ行ク(戦友の屍を貫いて行く)

雪中行軍第二日、すなわち1月24日午後、歩兵第六中隊二等卒菅原辰四郎の手足が凍傷に侵され昏倒した。戦友の二等卒石神清吉は友愛の情禁じ得ず、菅原を背負い隊の後尾にあって行進を続けた。

石神は自身も困憊し、やがて菅原を樹下に安置して告別し、引き続き行軍した。長谷川特務曹長の一行に遭遇し大崩澤西方高地に至り、終に斃れた。

石神清吉は岩手縣西磐井郡中泉村の人、明治33年徴兵。身体強壮にして技藝に優れた。その志は最も実(まこと)であり、後世の鑑とするに足る。

四、勇躍水ニ抄シテ血路ヲ開カントス(勇躍して水に投じ血路を開かんとす)

1月26日午後、生存者十数名を率いて崖より下った。一群は崖の上に横たわり一夜を徹して覚醒し、28日、倉石大尉の下で行動した。

絶壁を下り、駒込深谷の蛇ノ木澤に至り数十尺の崖に直面した。流勢は急にして河岸に奔り下り、石岩附近にて進路を誤った。

倉石大尉の前に至り、今泉少尉(見習士官)に一杯の水を請うた。大尉は決然として水を飲ませた。この勇者は小野寺熊次郎であった。大尉曰く、伍長曰く、一決心をもって水中に身を投じた。

水深は腰部に達し、「万歳」を唱えて水中に投じた。嗚呼、勇敢なり。

📝 注記:「勇躍水ニ抄シテ血路ヲ開カントス」は、小野寺熊次郎が腰までの冷水に自ら飛び込み、一行の活路を開こうとしたエピソード。駒込深谷の蛇ノ木澤は急峻な渓谷で、凍傷の身でこの行動に出たことは壮絶というほかない。倉石大尉・今泉少尉(見習士官)と共に行動していた一群の記録。
貴重ノ器具捨ルニ忍ビス 一月二十四日行軍隊ハ嶽狂暴ナル天候ノ窒壓スル所トナリ悲慘ノ情况ヲ呈ス 戰友相勸ヒ七〔?〕患者看護死者繊出シ午后ニ至リ凍傷者續出ス 十二年十二月徴兵入營宮城縣栗原郡松倉村ノ人三十四年十二月伍長 ノ本顧ハ蓋シ水中ニ殉ジ死地ニ至レバ使命ヲ帶ビ 水別ト雖死地ニ〔■〕情况ノ使命ヲ帶ブ 知ラズ志願シ三十四年十二月入營宮城縣栗原郡松倉村ノ人明治三十三年十二月伍長 死シテ猶其部下チ愛ス 此時第五中隊一等卒吉田多藏偶々進路ニ小十字鑲五個放置シアルヲ認メ貴重ノ器具棄ツルニ忍ビズトシ自己ノ凍傷ヲ意トセズ困苦艱難ヲ冒シ之ヲ負フテ行ク 多藏偶々進路ニ自己ノ凍傷ヲ忍ビズ五個ノ十字鑑ヲ放置シアルヲ見テ中尉自己ノ凍傷ヲ顧ミズ 伊藤中尉其志ノ甚ダ美ナルヲ賞シ且ツ身ヲ忘レタル 廿五日朝第二露營地ヲ發スニ隊長合シテ銃ヲ携帶シ行軍第四日マデグレ澤ニ至リ驚レタルモノニシテ此時音ニ至ルマデ武 武器ヲ愛スル一切ナリ 廿五日朝第二露營地ヲ發スニ 携帶スル一能ハザル此地ニ於テ隊長合シテ一日タク凍傷ニ罹リ銃ヲ 銃ヲ股間ニ挾ミテ蟹果尚ホ遊底一個ヲ外套ノ衣蓑ニ容ルル蓋シ戰友ノ 著ニ三種遺ノ手段ヲ講ジ以テ之ヲ保持スル 銃ヲ股間ニ挾ミ其著衣ニシテモ手ノ自由ヲ有スルモノ多ク廣ニ其著シ 途タルモリ此ノ一負草短カキ過ギャ之ヲ探ル亦可ナリ 不幸ニシテモ他ノ日再ビ來リ 武装整然一物ノ缺ナシ以テ其用意ノ至レルヲ知ル 一等卒 猪股源太郎 伍長  沼田音太郎 奮テ斥候ヲ志願ス 負革ヲ以テ銃ヲ右肩ヨリ斜メニ保持シタル 一下ニ 銃ヲ帶革ニ堅ク挾ミ保持シタル 上等兵 大村馬喜作 一等卒 芳賀卯一郎 木村松兵衛 繩ヲ以テ銃ヲ右肩ヨリ斜メニシテ左脇下ニ 嗽叱僅カニ驚ル 一等卒 小笠原清次郎
五、貴重ノ器具捨ルニ忍ビス(貴重な器具を捨てるに忍びず)

1月24日、行軍隊は猛烈な天候に圧倒され悲惨な情況を呈した。戦友互いに勧め合い、患者看護・死者の搬出を行ったが、午後に至り凍傷者が続出した。

この際、第五中隊一等卒吉田多藏は、進路に小十字鑲五個が放置されているのを見て、貴重な器具を棄てるに忍びずと、自己の凍傷をも意に介せず困苦艱難を冒してこれを背負い行軍を続けた。日暮に及び伊藤格明中尉に状況を述べると、中尉は「その志の甚だ美なることを賞する。しかし今日の場合、身体の保全を第一とせよ。器具は他日また来て取ればよい」と告げてこれを措かせた。吉田多藏は夜半に絶命した。岩手縣盛岡市馬町の人、明治33年徴兵、第五中隊所属。

六、死シテ猶其部下チ愛ス(死してなおその部下を愛す)

行軍第三日、1月25日、鳴澤附近にて一隊は進路を失い困憊の極に至った。この状況下、決死の斥候として二組が派遣され、今井米雄特務曹長以下がその任に就いた。

3月21日、捜索隊は中ノ森南方斜面にて特務曹長今井米雄・一等卒長谷川榮四郎・同小野寺市兵衛・同太田丈市郎の遺体を発見した。今井特務曹長は自己の雨覆を傍らに倒れた太田丈市郎に被せ、他二名の上に重なるように伏臥し、その指揮刀は帯革として共に身辺に植え立てられていた。死後の標示のためである。部下を愛し、死後をも潔くした姿は人をして感嘆に堪えさせない。今井は長野縣西筑摩郡福嶋町の人、篤実な人格で累進して特務曹長に至った。

七、武器ヲ愛スル一切ナリ(武器を愛すること一切なり)

25日朝、第二露営地を出発するにあたり、多くの者が凍傷に罹り銃を携帯する能力を失った。しかし以下の者たちは、各々の工夫により銃を保持し続けた。

銃の保持方法と該当者:

・銃を帯革に堅く挾み保持したる者:
 上等兵 大村馬喜作
 一等卒 木村松兵衛

・繩をもって銃を右肩より斜めにして左脇下に保持したる者:
 喇叭手 芳賀卯一郎
 一等卒 小笠原清次郎

・銃を股間に挾み保持したる者(斃れても遊底一個を外套の衣嚢に容れた):一等卒 猪股源太郎

・行軍第四日マグレ澤に至るまで武装整然一物の缺なし:伍長 沼田音太郎

武装整然、一物の缺なし。もってその用意の至れるを知る。

📝 注記:「武器を愛する」エピソードは、凍傷で手指が機能しなくなっても各自の工夫で銃を離さなかった兵士たちの具体的記録。負革(おいかわ)を肩に掛ける、繩で体に縛り付ける、股に挟む等、極限状態での創意工夫が詳細に記されている。軍の精神教育の観点からの評価であると同時に、凍傷の進行状態(手の自由を失う段階)を示す医学的記録でもある。
奮テ斥候ヲ志願ス 行軍第三日午前三時出發歸營ノ途ニ上リシガ不幸ニシテ歸路ヲ發見スル能ハメビ鳴澤營地ニ至ル 中野大橋両中尉永井軍醫等常ニ倒レ省ト能ハメビ鳴澤營地ニ歸營ノ遂ニ上リシガ不幸ニシテ歸路ヲ發見 此報告ヲ得タルヤ直チ高橋尓候ハ既ニ午前十一時頃高橋尓候ニ就キ自ラ來リ報告セリ特務曹長佐藤勝輝同小山 復路ヲ發見セヨ山口少佐精元氣ヲ通ジ報告セリ高橋尓候長自ラ之ニ就キ報告セリ 渡邊軍曹以テ下記十二名候ヲ 宮城縣本吉郡氣仙沼町 第十中隊 伍長 高橋 他大一美事 但シ四名ハ生存者ニ此五名ヲ駒込方向ヨリ共ニ田茂木野ノ左方ヨリ高橋村民ヲ報告セリ 大尉即チ愛シタル四名ハ生存者ニシテ其姓名ヲ記録スルモノナリ渡邊軍曹ハ此五名ヲ前ニ方向ヲ共ニ田茂木野ノ方ヨリ高橋民ヲ高地ニ嚮導シ之ヲ報告セヨ高橋村民ヲ共ニ 渡邊軍曹以テ左ノ任務ヲ與フ日ク高橋尓候ノ方向ヨリ高地ニ至ル 死以テ上官ニ奉ズ 宮城縣本吉郡氣仙沼町 第十中隊 伍長 高橋他一 行軍第二日水野中尉凍傷甚タシク歩行顔ル困難ヲ覺ルニ至ル從卒小野寺庄右衛門及ビ一等卒鈴木清右衛門終始傍ニ侍シ扶擁看護盡サバル無シ水野中尉全ク絕命シ庄右衛門及ビ清右衛門ハ共ニ武装整然中尉ニ面シテ側ニ倒レ殉死セリ 戦友チ愛スルコト切ナリ 一月廿四日掃蕩聽田ヨリ風雪烈ナルシク凍寒冷淋漓步行最後ニ困難ヲ極ム同 第二中隊伍長橋村清七第三中隊伍長村松文哉好ク之ヲ扶助シ其銃ヲ擔ヒ其手ヲ携ヘ救護ニ盡瘁セリ橋村清七又馬立場ニ至リ 一隊ニ編入サレ第八中隊ニ入リ 戦友チ愛スルコト切ナリ其友情ニ厚キ共ニ死ニ就ケリ 鳴呼伍長ノ大樹ノ下ニ於テ友情ニ厚キ共ニ同集ノ情况ヲアリテ好ク戦友ヲ死ニ抱護シケリ
八、奮テ斥候ヲ志願ス(奮って斥候を志願す)

行軍第三日、午前3時に出発して帰営の途についたが、帰路を発見できず鳴澤營地に至った。中野・大橋両中尉、永井軍医らが次々と倒れた。

この状況下、高橋(第十中隊伍長)は自ら斥候(偵察)を志願した。午前11時頃、特務曹長佐藤勝輝小山らに報告し、山口少佐の命を受けて復路発見のため出発した。

渡邊軍曹以下12名が斥候として田茂木野方面に派遣された。高橋は駒込方向より田茂木野の左方へ向かい、高地に至って村民に報告した。

(宮城県本吉郡気仙沼町出身、第十中隊伍長 高橋他一〔?〕の美事として記録。)

九、死以テ上官ニ奉ズ(死をもって上官に奉ず)

行軍第二日、水野中尉の凍傷が甚だしく歩行困難となった。従卒小野寺庄右衛門および一等卒鈴木清右衛門は、終始傍らに侍して扶擁看護を尽くした。

水野中尉が全く絶命した時、庄右衛門および清右衛門は共に武装整然として中尉に面し側に倒れ、殉死した。宮城縣栗原郡金成村の人(小野寺庄右衛門)および宮城縣本吉郡松岩村の人(鈴木清右衛門)、共に明治33年12月徴兵、第八中隊所属、学術優等にして上等兵候補者に推された。

十、戦友チ愛スルコト切ナリ(戦友を愛すること切なり)

1月24日拂暁より風雪頓に劇しく、寒冷漸次その度を加え、正午に至り第二中隊伍長懸田良藏は激烈な凍傷に罹り歩行困難を極めた。

同中隊伍長橋村清七および第三中隊伍長村松文哉はよくこれを扶助し、銃を担い、その手を携えて救護に尽くした。橋村清七は終夜看護を続けたが、懸田伍長は遂に逝去した。橋村伍長はその後馬立場にて東南斜面の大樹の下で身辺を囲み、従容として死に就いた。

嗚呼、橋村伍長は友情の厚さのまま、戦友を抱護して共に死に就いた。

📝 注記:「奮テ斥候ヲ志願ス」は、渡邊幸之助軍曹(第八中隊、宮城縣刈田郡福岡村大字長袋)を中心とした12名の斥候隊のエピソード。渡邊軍曹組と高橋他一伍長(第十中隊、宮城縣本吉郡気仙沼町)組の二手に分かれて田茂木野方向を確認した。特務曹長佐藤勝輝・小山が高橋斥候に、今井米雄曹長・藤本左近が渡邊斥候に随行した。
「死以テ上官ニ奉ズ」は水野中尉に従卒小野寺庄右衛門(宮城縣栗原郡金成村)・一等卒鈴木清右衛門(宮城縣本吉郡松岩村)が殉じたエピソード。
「戦友チ愛スルコト切ナリ」の橋村清七(第二中隊伍長)は村松文哉(第三中隊伍長)とともに懸田良藏伍長を救護し、橋村は馬立場の大樹下で絶命した。
困憊ノ極猶其職チ盡ス 悲惨憔悴絶ナル行軍隊ハ一月二十五日第二露營地ニ沈淪セリ午前十時頃救援隊來ルト呼ブモノアリ衆躍起シテ西方ヲ仰視スレバ前方高地ニ當リ隊伍二三風雪ノ間ニ隱見シ我ニ向ッテ前進スルモノ、如シ 是ニ於テ一行ノ欣喜名狀スベカラズ遂ニ歡極マッテ涕涙スルモノアルニ至ル倉石大尉喇叭手ヲ連呼ス時ニ手指旣ニ半ハ欠リタル第八中隊二等卒春日林太夫聲ニ應シテ喇叭ヲ携ヘテ來ル 大尉曰ク速ニ集合ノ號音ヲ吹奏セヨト彼レ命ニ從ヒ直ニ喇叭ヲ口ニス然レ共其伸縮管ハ唇頭ニ凍着シテ吹奏スル能ハス大尉頻リニ督促ス林太夫因テ管口ヲ防寒外套ニ摩擦シ再ビ吹奏セリト雖モ氣力旣ニ衰ヘ號音斷續明了ナラズ 林太夫更ニ奮起シ集合ノ號音ヲ吹奏スルコトヲ得タリ然ルニ彼ノ救援隊ハ實ニ樹木ノ切株ニシテ林太夫ノ號音ニ應スルモノナク而シテ彼ノ唇肉ハ喇叭ノ爲メニ剥奪セラレ二十六日ニ至リ凍死セリ 四月三日搜索隊ノ屍體ヲ發見スルヤ猶喇叭ヲ身邊ニ置キタリ凍傷ニ惱ムモ猶命ヲ重シテ其職ヲ盡シ居肉剥奪スルモ辭セス靈魂空シク八甲田山麓ノ雪裡ニ眠ルト雖モ此一聲ハ正ニ後生ヲ奮起セシムルノ値アラントス 林太夫ハ宮城縣登米郡寶江村字田沼ノ人明治三十三年十二月徴兵第八中隊ニ入リ体格強健ノ故ヲ以テ喇叭手ニ擢抜セラレタルナリ 潔キ最後 四月廿三日搜索隊ハ馬立場西南約三百米突ノ樹下ニ於テ第十中隊 伍長高橋他一ノ死屍ヲ發見セリ其狀タル伍長ハ大樹ノ下ニ西面シテ身體ヲ屈シテ倒レ霜吉ハ其上方ニ伏臥シ アリ苟カモ身ヲ以テ伍長ヲ掩ヒ終ニ共ニ斃レタルモノ、如シ伍長先ッカ昏倒スルヤ佐々木霜吉自ラ其前ニ立チ以テ吹雪ヲ防キ伍長ヲ看護シ 伍長ハ身體ヲ屈シ吹雪ヲ防ギ且ツ美跡ヲ後人ニ示スニ至レリ 第六中隊一等卒佐々木霜吉ハ岩手縣稗貫郡外川目村ノ人明治三十二年十二月徴兵性質温良良兵卒タリシナリ 職務ノ爲メニ斃ル 看護長櫻井龍造ハ職務ノ爲メニ殉ジ 行軍隊遭難ノ當時衛生員ガ如何ニ救護ニ盡力セシカハ生存者ノ言ニヨリテ明カニシテ永井軍醫以下ハ第二日早ク手ニ凍傷ヲ受ケタリト云フ 一月三十日搜索隊ハ桜ノ木森東南斜面ニ於テ看護長櫻井龍造ノ死體ヲ發見セリ之ニ寒暖計ヲ手ニシタル儘斃レ居タリ死ニ至ルマデ職務ニ忠実ナリシ跡歴々見ルベク 龍造ハ岩手縣稗貫郡追町ノ人三十二年十二月入營看護手ト爲リ三十四年三等看護長ト爲リタルナリ 死シテ餘榮アリ 行單第二日未明露營地ヲ發シ歸途ニ向フヤ雪風狂暴ヲ退シ咫尺ヲ辨セズ一隊進退ヲ失ヒ駒込溪谷ニ陷ル水ニ沿ヒ下ルヽ數時再ビ懸崖ヲ攀チテ高地ニ上ル 此間一等卒南野長次郎列外ニ逸シ其影ヲ失フ人ヲ出シテ索ムレド其往ク所ヲ知ラズ二月廿三日始メテ搜索隊ノ爲メニ鳴澤東北方駒込溪流中ニ發見セラル 其狀縁カニ岩石ニ倚テ其位置ヲ保チ激流奔湧ノ間ニ浮沈スルノ如キモノ三十日顔面異狀ヲ呈シ一見其誰ナルヲ辨セズ而リト雖モ錢ヲ肩ニ負ヒ縄ヲ以テ之ヲ纒ヒ武装整然トシテ凜平トシテ威風ヲ存ス 武器ヲ愛スルノ念慮深ク其用意ノ周到ナル賞スベシ此銃器ハ長次郎ノ名ト共ニ振天府ニ嶽納ノ榮ヲ得ントス死シテ餘榮アリト云フ可シ長次郎ハ岩手縣御明神村ノ人ナリ 雪中ニ佇立シテ善ク大任ヲ全フス 一月廿七日數隊救護隊大瀧平ニ至リ時恰モ步兵ヲ立テリ アリシテ先行救護隊大瀧平ニ至ル 鈴木少尉及後藤伍長ハ一群ノ兵ヲ先頭ニ率ヰ其任ヲ果ス如ク雪中ニ佇立シ善ク大任ヲ全フスタリ 明タク然レドモ聯隊ニ報告シ伍長ノ餘力ヲ盡シ 伍長ハ往復所ヲ知ルヲ以テ田茂木野ニ大ニ至リ田茂木野ノ民ヲ知ラシメ 伍長ニ至リ三人ハ決死ヲ覺悟シタリ大尉ヲ偵察セリ然レドモ 健康ナリ伍長ハ往復ノ路ヲ知ルヲ以テ 是ニ於テ伍長善ク大任チ全フス 二ハ聯隊ニ報告シ伍長ハ餘力ヲ盡シテ大ニ叫ビ田茂木野ノ民ヲ驚カシ助ケヲ求メタリ 覆ハ聯隊ニ報告シ伍長ハ外空ヲ盡シ 田茂木野ノ民ヲ喚ビ覺シ知ラシメン爲ニ大ニ起テ叫ビタリ
十一、困憊ノ極猶其職チ盡ス(困憊の極みになおその職を尽くす)

悲惨憔悴絶なる行軍隊は1月25日、第二露営地に沈淪していた。午前10時頃、「救援隊が来た」と呼ぶ者があり、衆は奮い立って西方を仰視した。前方高地に2、3人の姿が風雪の間に見え隠れし、こちらへ前進してくるかのようであった。一行の欣喜は名状しがたく、ついに感極まって泣き崩れる者もあった。

倉石大尉が喇叭手を連呼した。手指がすでに半ば欠けていた第八中隊二等卒春日林太夫が声に応じて喇叭を持ってきた。大尉「速やかに集合の号音を吹奏せよ」と命じた。林太夫は命に従い直ちに喇叭を口にしたが、伸縮管が唇頭に凍着して吹奏できなかった。大尉が頻りに督促するので、林太夫は管口を防寒外套で摩擦して再び吹奏したが、気力がすでに衰え、号音は断続して明瞭ではなかった。林太夫は更に奮起して集合の号音を吹奏することができた。しかしその救援隊は実に樹木の切株であった。

林太夫の号音に応ずる者はなく、その唇肉は喇叭のために剥奪された。1月26日に凍死した。4月3日、捜索隊が遺体を発見した際も、猶喇叭を身辺に置いていた。凍傷に苦しみながらもなお命を重んじてその職を尽くし、唇肉が剥奪されても辞さなかった。霊魂はむなしく八甲田山麓の雪裡に眠るが、この一声は正に後生を奮起せしむるに値する。

林太夫は宮城縣登米郡寶江村字田沼の人、明治33年12月徴兵、第八中隊に入り、体格強健ゆえに喇叭手に抜擢された。

十二、潔キ最後(いさぎよき最後)

4月23日、捜索隊は馬立場西南約300メートル(三百米突)の樹下において第十中隊伍長高橋他一および第六中隊一等卒佐々木霜吉の死屍を発見した。

その状は、高橋伍長が大樹の下に西面して身体を屈して倒れており、霜吉はその上方に伏臥していた。高橋伍長がまず昏倒するや、霜吉は自ら伍長の前に立って吹雪を防ぎ、身をもって伍長を掩い、ついに共に斃れたものと見える。美跡を後人に示すに至った潔い最後であった。

霜吉は岩手縣稗貫郡外川目村の人、明治32年12月徴兵、第六中隊に入り、性質温良にして良兵卒であった。

十三、職務ノ爲メニ斃ル(職務のために斃る)

行軍隊遭難の当時、衛生員が如何に救護に尽力したかは生存者の言に明らかである。永井軍医以下は第二日早くも手に凍傷を受けたという。

1月30日、捜索隊は桜ノ木森東南斜面において看護長櫻井龍造の死体を発見した。寒暖計を手にしたまま斃れていた。死に至るまで職務に忠実であった跡が歴々と見える。その遺体と遺せし跡を見て、永久に称賛せざる者はなかった。

龍造は岩手縣稗貫郡追町の人、明治32年12月入営、看護手となり、34年に三等看護長となった。

十四、死シテ餘榮アリ(死して余栄あり)

行軍第二日未明、露営地を発して帰途に向かうや、風雪狂暴にして咫尺を弁ぜず、一隊は進退を失って駒込溪谷に陥り、水に沿って下ること数時間、再び懸崖を攀じて高地に上った。

この間、一等卒南野長次郎が列外に逸れてその影を失った。人を出して索めたが往く所を知らず、2月23日、初めて捜索隊により鳴澤東北方の駒込溪流中に発見された。その状は岩石に寄りかかってその位置を保ち、激流奔湧の間に浮沈するかのようであった。30日間の変化により顔面が異状を呈し、一見誰であるか弁じ難かったが、銭を肩に負い縄でそれを纒い、武装整然として凜然たる威風を保っていた。

武器を愛するの念慮深く、用意の周到なることは最も賞すべきである。この銃器は長次郎の名とともに振天府に嶽納の栄を得るに至った。「死して余栄あり」というべきである。長次郎は岩手縣御明神村の人。

十五、雪中ニ佇立シテ善ク大任ヲ全フス(雪中に佇立して善く大任を全うす)

1月26日午後、神成大尉・鈴木少尉・後藤伍長の三人が先頭に立って行進したが、従う者は漸く減り、夕刻大瀧平に達するや又一兵の従う者もなかった。三人はここに露営することに決した。鈴木少尉は更に前方を偵察しようとした。

翌27日、救援隊が大瀧平に至った時、恰も步哨の立てるが如く雪中に佇立して救援隊に第一の情報を伝えたのは伍長後藤房之助であった。後藤伍長は神成大尉の命により、手足の凍傷にも拘わらず奮激して北進し、田茂木野に至って村民を雇い助けを求め、また聯隊に報告した。七八十間(約130〜150m)を進行するのがやっとという状態で、善く大任を全うした。

後藤伍長は今や手指端および両足を失い、義肢を賜って郷里に帰り余生を送っている。後藤伍長は宮城縣栗原郡姫松村の人、明治32年12月召集、第八中隊に入り、学術優等・射驅強壮にして伍長に任じられた。

📝 注記:「困憊ノ極猶其職チ盡ス」の春日林太夫(第八中隊二等卒、宮城縣登米郡寶江村字田沼)は喇叭手として倉石大尉の命に従い、唇肉が剥がれても吹奏し続けた。救援隊と思ったのは樹木の切株だった。
「潔キ最後」は馬立場西南約三百米突の樹下での発見記録。第十中隊伍長高橋他一が倒れた後、第六中隊一等卒佐々木霜吉(岩手縣稗貫郡外川目村)が前に立って吹雪を防ぎ共に斃れた。
「職務ノ爲メニ斃ル」の櫻井龍造看護長(岩手縣稗貫郡追町)は寒暖計を手にしたまま桜ノ木森東南斜面で発見された。
「死シテ餘榮アリ」の南野長次郎は高地攀登中に溪谷に落ち、2月23日駒込溪流中に発見された。武装整然のまま振天府に銃が奉納された。
「雪中ニ佇立シテ善ク大任ヲ全フス」の後藤房之助伍長(宮城縣栗原郡姫松村)は生存者で、凍傷により両手指・両足を失ったが田茂木野への報告を果たした。後藤伍長の銅像は後年建立された。

⚠️ このページ(附録 p.26〜31)のコンテンツはファイル破損により欠損しています。原本PDFをご参照ください(国立国会図書館デジタルコレクション pid/13121332)。

⚠️ このページ(附録 p.26〜31)の現代語訳はファイル破損により欠損しています。原本PDFをご参照ください。