Part 7の主要内容:遭難殉職亡者人名簿(続き・完結)+附録全文。附録は緒言に続き、遺体発見時の状況や生存者証言から再構成された殉職者の個人エピソード16話を収録。「死シテ猶上官ヲ庇護ス」「己レチ捨テ上官チ救フ」「戦友ノ屍チ貫フテ行ク」「勇躍水ニ抄シテ血路ヲ開カントス」「貴重ノ器具捨ルニ忍ビス」「死シテ猶其部下チ愛ス」「武器ヲ愛スル一切ナリ」「奮テ斥候ヲ志願ス」「死以テ上官ニ奉ズ」「戦友チ愛スルコト切ナリ」「困憊ノ極猶其職チ盡ス」「潔キ最後」「死シテ餘榮アリ」「雪中ニ佇立シテ善ク大任チ全フス」「從容重荷チ負フテ驚ル」「飢餓ハ凍傷チ誘發セン」+附随「村民ノ盡力」。
【遭難殉職亡者人名簿(続き・完結)】
Part 6から続く一等卒名簿の後半、および二等卒名簿の全員を収録。全199名の名簿がここで完結する。
■ 一等卒(続き)
谷藤德太郎、花籠三藏、古持要言、小笠原辰治郎、小笠原連次郎、菊地留吉、佐々木留吉、菅原忠左衛門、大松庄七、及川長三郎、佐藤良平、及川厚、佐々木清太郎、紺野作治、高橋多藏、高橋定八、藤地鑒八、菊池忠太郎、佐々木淺治、長内鵜三郎、伊勢卯之幸、千葉卯清松、武田長次郎、小笠原孫之垣、朝倉豊治…
千葉五右衛門、菊池傳吾、菊池陽悟、小野寺市兵衛、山田憲之遂、佐々木乙三郎、小野寺清太郎、武田清五、橋脇卯三吉、高橋千代治、佐藤專三郎、富澤兼松、吉田六兵衛、遠藤松藏、木村松兵藏、菅野慶三郎、千葉庄三七、小野寺庄右衛門、鈴木清三郎、加藤左衛門、後藤八五郎、猪俣良太、小野寺辰之進…
小野寺善四郎、長谷川榮四郎、千葉春松、南舘長次郎、藤川善太郎、佐々木榮太郎、高橋長藏、高橋多吉、輕石千藏…
■ 陸軍歩兵二等卒
武田仁八、岸本多藏、照井永次、後藤三郎、太田四郎、佐々木霜吉、石神小吉、小原忠松、阿部房松、菅原辰四藏、菅原辰太郎、佐藤久右衛門、白取兵衛、瀬川利吉、黒澤慶助、紺野市治郎、佐々木善吉、小笠原千太郎、佐藤卯一郎、芳賀安右衛門、金野信太郎、藤野政右衛門、菅原卯一郎、齊藤幸太郎、三田市右衛門、石塚一二三 ほか
最後に伊藤大右衛門、佐藤吉治、千田重藏、石川善四郎の名が記され、遭難殉職全199名の人名簿が完結する。
【附録 緒言】
過般、不幸にして遭難の事があり、二百の戦友が雪中に埋もれるを思えば、その当時の情况に至れば惻然(いたましく)として痛哭せずにはいられない。
その遺骸を索(もと)めるにあたり、勇士が死の間際に発揮した精神の数々を聞いた。あるいは愛する精神であり、あるいは決死の難に赴く武勇であり、あるいは上官を救う忠義であり、人を悲しませると共に、その最後の美しさに感嘆措く能わざるものがある。蓋し各人の平素の用意と軍隊精神教育の賜物であろう。
嗚呼、死は一面において已然(避けられぬもの)であるが、その最後の美しさは百世の後までその徳を称賛せしめるものである。平時の精神教育の効果が歴々として見るべきものがある。
ここに列挙するのは、二、三の生存者が危急存亡の際に眼に映じた事柄と、捜索隊が混乱の際に士卒の心の糸に触れた事柄を拾い集め、精神教育の一助とせんがためである。ただ恨むらくは、悉く之を蒐集しその芳名を千載に伝えること能わず、敢えて一言を附記するものである。
陸軍歩兵一等卒輕石三藏は、岩手県和賀郡立花村の農家の出身。明治33年12月に徴兵され、歩兵第五聯隊第六中隊に入営した。身体は強健、性質は温良にして、射撃は優等章の徽章を授けられるほどの腕前であった。
行軍中、興津大尉(興津景敏)の凍傷が重くなり、輕石三藏は大尉の看護にあたった。大尉は仰向けに倒れ、三藏は大尉の足を抱いて体を温め続けた。陸地測量部班長・外谷大尉も写真を携えて遭難地にあり、現場で共に殉死した。
澤谷の底で遺骸が発見された時、輕石三藏は大尉の側に伏して足を温めた姿勢のままであった。人々これを見て涙を禁じ得なかった。
嗚呼、輕石三藏の忠義は極まれりと云うべし。
行軍第二日、天候は激変し、厳寒・酷雪・風は怒号し、一隊は路を失い終日将卒共に困憊した。
その際、一等卒山本德次郎は、倉石大尉の危きを見るや、奮然として起ち、己を捨てて大尉のために尽くした。25日午後に至っても天候は依然として狂暴であったが、山本は水を求めて特に久しく大尉に従い谷底に至った。
倉石大尉等に扈從し、大尉に従い谷底に帰り、ついに命を落とした。
嗚呼、山本德次郎の熱誠は賞するに余りあり。
雪中行軍第二日、すなわち1月24日午後、歩兵第六中隊二等卒菅原辰四郎の手足が凍傷に侵され昏倒した。戦友の二等卒石神清吉は友愛の情禁じ得ず、菅原を背負い隊の後尾にあって行進を続けた。
石神は自身も困憊し、やがて菅原を樹下に安置して告別し、引き続き行軍した。長谷川特務曹長の一行に遭遇し大崩澤西方高地に至り、終に斃れた。
石神清吉は岩手縣西磐井郡中泉村の人、明治33年徴兵。身体強壮にして技藝に優れた。その志は最も実(まこと)であり、後世の鑑とするに足る。
1月26日午後、生存者十数名を率いて崖より下った。一群は崖の上に横たわり一夜を徹して覚醒し、28日、倉石大尉の下で行動した。
絶壁を下り、駒込深谷の蛇ノ木澤に至り数十尺の崖に直面した。流勢は急にして河岸に奔り下り、石岩附近にて進路を誤った。
倉石大尉の前に至り、今泉少尉(見習士官)に一杯の水を請うた。大尉は決然として水を飲ませた。この勇者は小野寺熊次郎であった。大尉曰く、伍長曰く、一決心をもって水中に身を投じた。
水深は腰部に達し、「万歳」を唱えて水中に投じた。嗚呼、勇敢なり。
1月24日、行軍隊は猛烈な天候に圧倒され悲惨な情況を呈した。戦友互いに勧め合い、患者看護・死者の搬出を行ったが、午後に至り凍傷者が続出した。
この際、第五中隊一等卒吉田多藏は、進路に小十字鑲五個が放置されているのを見て、貴重な器具を棄てるに忍びずと、自己の凍傷をも意に介せず困苦艱難を冒してこれを背負い行軍を続けた。日暮に及び伊藤格明中尉に状況を述べると、中尉は「その志の甚だ美なることを賞する。しかし今日の場合、身体の保全を第一とせよ。器具は他日また来て取ればよい」と告げてこれを措かせた。吉田多藏は夜半に絶命した。岩手縣盛岡市馬町の人、明治33年徴兵、第五中隊所属。
行軍第三日、1月25日、鳴澤附近にて一隊は進路を失い困憊の極に至った。この状況下、決死の斥候として二組が派遣され、今井米雄特務曹長以下がその任に就いた。
3月21日、捜索隊は中ノ森南方斜面にて特務曹長今井米雄・一等卒長谷川榮四郎・同小野寺市兵衛・同太田丈市郎の遺体を発見した。今井特務曹長は自己の雨覆を傍らに倒れた太田丈市郎に被せ、他二名の上に重なるように伏臥し、その指揮刀は帯革として共に身辺に植え立てられていた。死後の標示のためである。部下を愛し、死後をも潔くした姿は人をして感嘆に堪えさせない。今井は長野縣西筑摩郡福嶋町の人、篤実な人格で累進して特務曹長に至った。
25日朝、第二露営地を出発するにあたり、多くの者が凍傷に罹り銃を携帯する能力を失った。しかし以下の者たちは、各々の工夫により銃を保持し続けた。
銃の保持方法と該当者:
・銃を帯革に堅く挾み保持したる者:
上等兵 大村馬喜作
一等卒 木村松兵衛
・繩をもって銃を右肩より斜めにして左脇下に保持したる者:
喇叭手 芳賀卯一郎
一等卒 小笠原清次郎
・銃を股間に挾み保持したる者(斃れても遊底一個を外套の衣嚢に容れた):一等卒 猪股源太郎
・行軍第四日マグレ澤に至るまで武装整然一物の缺なし:伍長 沼田音太郎
武装整然、一物の缺なし。もってその用意の至れるを知る。
行軍第三日、午前3時に出発して帰営の途についたが、帰路を発見できず鳴澤營地に至った。中野・大橋両中尉、永井軍医らが次々と倒れた。
この状況下、高橋(第十中隊伍長)は自ら斥候(偵察)を志願した。午前11時頃、特務曹長佐藤勝輝、小山らに報告し、山口少佐の命を受けて復路発見のため出発した。
渡邊軍曹以下12名が斥候として田茂木野方面に派遣された。高橋は駒込方向より田茂木野の左方へ向かい、高地に至って村民に報告した。
(宮城県本吉郡気仙沼町出身、第十中隊伍長 高橋他一〔?〕の美事として記録。)
行軍第二日、水野中尉の凍傷が甚だしく歩行困難となった。従卒小野寺庄右衛門および一等卒鈴木清右衛門は、終始傍らに侍して扶擁看護を尽くした。
水野中尉が全く絶命した時、庄右衛門および清右衛門は共に武装整然として中尉に面し側に倒れ、殉死した。宮城縣栗原郡金成村の人(小野寺庄右衛門)および宮城縣本吉郡松岩村の人(鈴木清右衛門)、共に明治33年12月徴兵、第八中隊所属、学術優等にして上等兵候補者に推された。
1月24日拂暁より風雪頓に劇しく、寒冷漸次その度を加え、正午に至り第二中隊伍長懸田良藏は激烈な凍傷に罹り歩行困難を極めた。
同中隊伍長橋村清七および第三中隊伍長村松文哉はよくこれを扶助し、銃を担い、その手を携えて救護に尽くした。橋村清七は終夜看護を続けたが、懸田伍長は遂に逝去した。橋村伍長はその後馬立場にて東南斜面の大樹の下で身辺を囲み、従容として死に就いた。
嗚呼、橋村伍長は友情の厚さのまま、戦友を抱護して共に死に就いた。
「死以テ上官ニ奉ズ」は水野中尉に従卒小野寺庄右衛門(宮城縣栗原郡金成村)・一等卒鈴木清右衛門(宮城縣本吉郡松岩村)が殉じたエピソード。
「戦友チ愛スルコト切ナリ」の橋村清七(第二中隊伍長)は村松文哉(第三中隊伍長)とともに懸田良藏伍長を救護し、橋村は馬立場の大樹下で絶命した。
悲惨憔悴絶なる行軍隊は1月25日、第二露営地に沈淪していた。午前10時頃、「救援隊が来た」と呼ぶ者があり、衆は奮い立って西方を仰視した。前方高地に2、3人の姿が風雪の間に見え隠れし、こちらへ前進してくるかのようであった。一行の欣喜は名状しがたく、ついに感極まって泣き崩れる者もあった。
倉石大尉が喇叭手を連呼した。手指がすでに半ば欠けていた第八中隊二等卒春日林太夫が声に応じて喇叭を持ってきた。大尉「速やかに集合の号音を吹奏せよ」と命じた。林太夫は命に従い直ちに喇叭を口にしたが、伸縮管が唇頭に凍着して吹奏できなかった。大尉が頻りに督促するので、林太夫は管口を防寒外套で摩擦して再び吹奏したが、気力がすでに衰え、号音は断続して明瞭ではなかった。林太夫は更に奮起して集合の号音を吹奏することができた。しかしその救援隊は実に樹木の切株であった。
林太夫の号音に応ずる者はなく、その唇肉は喇叭のために剥奪された。1月26日に凍死した。4月3日、捜索隊が遺体を発見した際も、猶喇叭を身辺に置いていた。凍傷に苦しみながらもなお命を重んじてその職を尽くし、唇肉が剥奪されても辞さなかった。霊魂はむなしく八甲田山麓の雪裡に眠るが、この一声は正に後生を奮起せしむるに値する。
林太夫は宮城縣登米郡寶江村字田沼の人、明治33年12月徴兵、第八中隊に入り、体格強健ゆえに喇叭手に抜擢された。
4月23日、捜索隊は馬立場西南約300メートル(三百米突)の樹下において第十中隊伍長高橋他一および第六中隊一等卒佐々木霜吉の死屍を発見した。
その状は、高橋伍長が大樹の下に西面して身体を屈して倒れており、霜吉はその上方に伏臥していた。高橋伍長がまず昏倒するや、霜吉は自ら伍長の前に立って吹雪を防ぎ、身をもって伍長を掩い、ついに共に斃れたものと見える。美跡を後人に示すに至った潔い最後であった。
霜吉は岩手縣稗貫郡外川目村の人、明治32年12月徴兵、第六中隊に入り、性質温良にして良兵卒であった。
行軍隊遭難の当時、衛生員が如何に救護に尽力したかは生存者の言に明らかである。永井軍医以下は第二日早くも手に凍傷を受けたという。
1月30日、捜索隊は桜ノ木森東南斜面において看護長櫻井龍造の死体を発見した。寒暖計を手にしたまま斃れていた。死に至るまで職務に忠実であった跡が歴々と見える。その遺体と遺せし跡を見て、永久に称賛せざる者はなかった。
龍造は岩手縣稗貫郡追町の人、明治32年12月入営、看護手となり、34年に三等看護長となった。
行軍第二日未明、露営地を発して帰途に向かうや、風雪狂暴にして咫尺を弁ぜず、一隊は進退を失って駒込溪谷に陥り、水に沿って下ること数時間、再び懸崖を攀じて高地に上った。
この間、一等卒南野長次郎が列外に逸れてその影を失った。人を出して索めたが往く所を知らず、2月23日、初めて捜索隊により鳴澤東北方の駒込溪流中に発見された。その状は岩石に寄りかかってその位置を保ち、激流奔湧の間に浮沈するかのようであった。30日間の変化により顔面が異状を呈し、一見誰であるか弁じ難かったが、銭を肩に負い縄でそれを纒い、武装整然として凜然たる威風を保っていた。
武器を愛するの念慮深く、用意の周到なることは最も賞すべきである。この銃器は長次郎の名とともに振天府に嶽納の栄を得るに至った。「死して余栄あり」というべきである。長次郎は岩手縣御明神村の人。
1月26日午後、神成大尉・鈴木少尉・後藤伍長の三人が先頭に立って行進したが、従う者は漸く減り、夕刻大瀧平に達するや又一兵の従う者もなかった。三人はここに露営することに決した。鈴木少尉は更に前方を偵察しようとした。
翌27日、救援隊が大瀧平に至った時、恰も步哨の立てるが如く雪中に佇立して救援隊に第一の情報を伝えたのは伍長後藤房之助であった。後藤伍長は神成大尉の命により、手足の凍傷にも拘わらず奮激して北進し、田茂木野に至って村民を雇い助けを求め、また聯隊に報告した。七八十間(約130〜150m)を進行するのがやっとという状態で、善く大任を全うした。
後藤伍長は今や手指端および両足を失い、義肢を賜って郷里に帰り余生を送っている。後藤伍長は宮城縣栗原郡姫松村の人、明治32年12月召集、第八中隊に入り、学術優等・射驅強壮にして伍長に任じられた。
「潔キ最後」は馬立場西南約三百米突の樹下での発見記録。第十中隊伍長高橋他一が倒れた後、第六中隊一等卒佐々木霜吉(岩手縣稗貫郡外川目村)が前に立って吹雪を防ぎ共に斃れた。
「職務ノ爲メニ斃ル」の櫻井龍造看護長(岩手縣稗貫郡追町)は寒暖計を手にしたまま桜ノ木森東南斜面で発見された。
「死シテ餘榮アリ」の南野長次郎は高地攀登中に溪谷に落ち、2月23日駒込溪流中に発見された。武装整然のまま振天府に銃が奉納された。
「雪中ニ佇立シテ善ク大任ヲ全フス」の後藤房之助伍長(宮城縣栗原郡姫松村)は生存者で、凍傷により両手指・両足を失ったが田茂木野への報告を果たした。後藤伍長の銅像は後年建立された。
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