Part 5の主要内容:第六章・特別業務の続き ― 諸物品調辨(物資調達)、運輸部業務(設置前・設置後の第一期~第三期)、衛生部事項(軍医配置・廠舎・被服・給養)、捜索隊の患者概況、生存者の救護・治療記録、死体取扱業務(検案所・収容所の設置と運営、火葬・遺族への引渡手続)、および第七章・家族掛設置業務(遺族支援組織の編成と活動)。
【諸物品調辨(物資調達)】
捜索隊の根拠地ともいうべき田茂木野は、八甲田山麓のわずか14戸の寒村であり、市井に商人を求めることのできない土地であった。多数の必要物品はすべて緊急を要するものであり、市井の商人に調達を依頼することは到底不可能であった。
一般に物資の購買については、車両または製作を要するものは状況に応じて付近の部村(周辺集落)に至らしめ集積させた。薪炭については木炭及び付近から、また盛岡付近からも堅雪の時期に雪上を運搬させた。
雪上輸送は比較的容易で価格も廉価に済んだが、運搬上は大いに困難を感じた。初めは山上の炭焼き場から直接購入し、3月中旬以降は堅雪を利用して運搬した。
雇用人夫を使用したが、道路は険悪で延行(進行)が不便であった。捜索隊における一人の負担量は四貫(約15kg)ないし六貫(約22.5kg)を超過することができなかった。
馬匹を使用することで大いに運搬力を増加させた。馬車の使用により、田茂木野間をすべて馬車で運搬できるようになった。4月初めから馬車を使用し、六十貫(約225kg)ないし百貫(約375kg)の運搬力を得ることができた。
【第四、運輸部設置前の業務】
遭難当時の凄惨な天候に打ち勝って捜索救護の実を挙げるためには、物資・材料を使用すべきものは設営に際してその目的を達することが困難であった。そこで捜索救護に必要な諸物資の調達を工藤少佐に命じ、地方官を督励して1月28日より作業に当たらせた。
特に補給の方法において、運輸は実に困難な業務であり、担当者の労苦は多大であった。捜索救護に必要な諸物資・諸材料は続々と屯営(駐屯地)に集積し、運搬その他の使役に応じるため臨時雇用人夫および地方寄附による人夫を使って運搬を行った。
【輸送の状況】
屯営(駐屯地)に庶務部を設け、部員・軍吏(経理担当)木直江に専ら運輸業務を専任させた。この期間において田茂木野に集積所を設け、田茂木野以南の各屯営内にあるものは田茂木野集積所に集積した。軍需品は庶務部より各哨所に運搬し、先頭の各哨所および各隊に使用させ、人夫を使用した。
当時の雪量は著しく多く、かつ柔らかくて路外一歩も許さない状況であった。営(田茂木野)では旧雪を踏み固めて道路とした。
時には遠伝法(リレー方式)を採用し、田茂木野以南の各哨所への輸送にはおおむね人夫を使用した。
【一、運輸部設置後の業務・第一期】(2月27日より)
強烈な風雪に遭遇すれば途中より逐次退却するも、その荷物を放棄することはなく、漸く進行した。また気力に飽くことなく、勉強な意志をもって任務に配し、至誠の義務の念をもって出役した。その威厳を確実に持っていた。
2月4日、弘前屯営在の輜重兵第八大隊の将校以下58名の応援を得た。
【編成】運輸部長:輜重兵中佐・齋藤長義(1名)、歩兵特務曹長・齋藤直吉(下士1名)
【2月10日付の人員配置変更】
| 配置先 | 階級 | 氏名 | 下士 | 卒 |
|---|---|---|---|---|
| 屯營本部 | 中尉 | 河崎末藏 | 28 | 25 |
| 田茂木野本部 | 少尉 | 佐藤寅松 | 15 | 20 |
| (見習士官) | 特務曹長 | 神山孝治 | ||
| 第八哨所支部 | 大尉 | 佐井寅彰 | 20 | 29 |
| 田茂木野支部 | 少尉 | 伊藤三郎 | ― | |
【輸送配當區域(物資集積所の配置)】
物資の集積所を設置し、その配当区域を以下のように定めた。
| 集積所名称 | 所在地 | 配当範囲 |
|---|---|---|
| 屯営倉庫 | 屯営内 | 屯営~田茂木野 |
| 田茂木野集積所 | 田茂木野 | 田茂木野以南各哨所 |
| 大ノ峠営 | 大ノ峠 | 南麓方面 |
物資はまず屯営内倉庫から田茂木野集積所へ輸送し、そこから第八哨所・第十一哨所の集積所へ、さらにその以南の各捜索隊へと分配した。逆順序で後送(使用済み物資の返却)も行った。
この時期に至り、さらに人夫募集規定を設け、常役人夫を召集した。屯営・田茂木野においては常役人夫を置き、各屯営にある田茂木野以南の各哨所に物品の運搬を担当させた。また付近の各哨所間の物資輸送も常置した。屯営から死体停車場あるいは火葬場への死体の運搬もここから行った。
捜索の効果はまだ十分でなく、短日月の業務では終わらないことが判明した。
【三、運輸部設置後の業務・第二期】(4月21日より)
持久的計画のもとに業務を実施することとし、運輸部の編成を実施した。
また従来の配当区域を改め、以下のように変更した。
| 配置先 | 階級 | 氏名 | 下士 | 卒 |
|---|---|---|---|---|
| 屯營本部 | 中尉 | 河崎末造 | 5 | ― |
| 田茂木野支部 | 特務曹長 | 平山多太郎 | 8 | ― |
| 第七哨所支部 | 特務曹長 | 齋藤彰 | 6 | ― |
配当区域は田茂木野集積所を中心に、第七哨所・鳴澤方面、第十四哨所、第八哨所方面をカバーした。
【輸送の状況(一期)】
一期における常役人夫の募集区域は青森・弘前の二市および東津軽郡にまたがり、統一的な管理ができず監視に困難をきたした。
北海道からの出稼ぎ労働者や市町村役場を通じた人夫など、就役は1日か2日限りの者も多かった。
常役人夫が次第にその業務に習熟してきたが、多額の費用を要したため、不利益な人夫を漸次解雇するに至った。馬に業務を移行し、大組織として輸送を維持した。
3月下旬以降は馬橇(ばそり)を使用。12日以来、積雪が漸次融解し馬車を使用できるようになった。また死体の運搬も背負いや馬車で行った。
【四、運輸部設置後の業務・第三期】
捜索業務の持久計画を改正した。田茂木野運輸支部は4月下旬に至り、屯営内の運輸本部は兵站部に合併されることとなり、臨時経理部の配下に入った。
業務は全遭難地域に至る物品の取扱いおよび輸送を掌り、その他常役人夫の取扱い等すべて運輸に関する一般業務を担当した。
この時期の運輸本部将校は時々交代したため、特に姓名を記載せず。5月中旬以降はさらに縮小し、5月20日には田茂木野支部のみとなった(将校1、卒3名のみ)。
常時の捜索間における輸送区域・範囲・輸送方法等については前期と異なっていた。
【傭役人夫員数表】(延べ人夫および馬橇・馬車の員数)
| 時期 | 常役人夫 | 日雇人夫 | 計 | 1日平均 |
|---|---|---|---|---|
| 運輸部設置前期 | 200 | 6,577 | 7,776 | 643 |
| 第一期 | 14,585 | 6,381 | 8,375 | 199弱 |
| 第二期 | 6,259 | 4,585 | 3,300弱 | ― |
| 第三期 | 200 | 259 | ― | ― |
| 合計 | 14,585 | 6,381 | 8,375 | 643/日 |
寄附人夫(無償):延べ約6,200人
使用馬橇:延べ6,576頭(1日平均75頭弱)
使用馬車:延べ105台(1日平均68台強)
【第五、衛生部事項】
一、衛生部員の配置および任務
1月28日、衛生部は捜索隊兵員の衛生治療に従事した。また人夫の患者を収容する施設を設置し、専ら遭難行軍隊の生存者を救護し、かつ捜索隊の患者収容所を設置して捜索隊兵員の衛生事務に従事させた。
【衛生部員の配置(哨所別)】
| 配置場所 | 軍医 | 看護手 | 看護長 |
|---|---|---|---|
| 最前方哨所 | ― | 2 | ― |
| 第八哨所 | 2 | 2 | ― |
| 第十哨所 | 1 | 1 | ― |
| 田茂木野収容所 | ― | 2 | ― |
| 青森衛戍病院 | 5 | 4 | 1 |
各哨所での衛生業務は以下を実施した。
田茂木野収容所では、各哨所における患者の状況に関する診療および衛生事項を調査し、ただちに死体検案を行い検案書を作成した。捜索係とともに死体発見の手続きを了した。
前方哨所では、患者をできるだけ迅速に青森衛戍病院に後送した。天候悪化その他の状況に関してその後送を監督し、かつ迅速に行った。
【青森衛戍病院】
衛生材料を購買し配当した。田茂木野収容所の準備にあたった。
1月29日〜2月2日の間に約150人の収容準備を行った。看護長および看護手数名を配置。2月1日には弘前の第三十一聯隊より軍医5名が来援した。
軍医の繁閑を視察し、第八哨所において約1週間配当して救護業務に従事した。
青森衛戍病院長:陸軍三等軍医正・後藤幾太郎
【捜索隊に配置された軍医一覧】
| 所属 | 官等 | 氏名 | 来青日 | 帰隊日 |
|---|---|---|---|---|
| 山形衛戍病院 | 陸軍一等軍医 | 中原貞衛 | 1月29日 | 2月21日 |
| 弘前歩兵第31聯隊 | 陸軍二等軍医薬剤官 | 內野定三郎 | 2月2日 | 3月13日 |
| 青森衛戍病院 | 全 | 小村其一 | 2月2日 | 2月22日 |
| 青森歩兵第5聯隊 | 全 | 民野鎌太郎 | 1月29日 | 2月20日 |
| 第八師團軍医部 | 全 | 中澤吉三郎 | 2月1日 | 2月20日 |
| 弘前歩兵第31聯隊 | 全 | 五十嵐雄三 | 1月31日 | 4月1日 |
| 青森歩兵第30聯隊 | 全 | 折居橋 | 2月1日 | 3月19日 |
| 輜重兵第八大隊 | 全 | 近岡吉進 | 1月30日 | 2月22日 |
| 弘前衛戍病院 | 陸軍三等軍医 | 鶏ノ澤 | 2月3日 | 3月14日 |
【二、捜索隊衛生上の状況 ― 廠舎(バラック)】
廠舎(仮設バラック)の構造は大小さまざまで、収容人員も常に一定しなかった。3月1日頃の概略は以下のとおりである。
【廠舎の寸法】
| 種類 | 縦(m) | 横(m) | 気積(㎥) | 平均収容人員 | 1人当面積(㎡) |
|---|---|---|---|---|---|
| 天幕 | ― | ― | ― | 約6人 | ― |
| 廠舎 | 約2,500 | 1,500弱 | 290 | 20人 | 365 |
※寸法は廠舎により差異あり。積雪の深い場所に建設されたため高さにも差があった。
【天然換気の方法】
廠舎における天然換気は、屋根の蘆莚(あしむしろ)の間隙、周壁と屋根の接合部の空隙、および入口から行われた。吹雪が激しいときは、屋根の蘆莚の間隙を通じて雪が充填し、側壁の中央わずかな部分からのみ換気が行われた。衛生上適当な処置と認められた。
ある廠舎では、昼間時々屋根の外造りの間口を開けて換気を行わせた。内口に差を懸垂し、またある廠舎では直径約80cmの隧道(トンネル)を穿って換気を行った。
天幕の換気は、もともとその幕布の間隙によるものであった。降雪中は外面布と側面布の間隙に白雪が堆積するのを除去しやすく、天然換気が可能であった。
廠舎内では木炭を使用し、節約のために中央に暖炉を設け、約1〜2個の毛布で蓋をして天幕上部の暖温に利用した。ただし廠舎内は暗鬱で、昼間でも灯火が必要であった。
【被服(服装)の状況】
捜索隊の服装は各隊ほぼ同一で、以下のとおりであった。
・綿ネル襦袢・毛布下套 各1、防寒用毛布外套 1、絨外套 1
・藁製手套 1、防寒用毛皮腕着 1、毛糸手套 各1、綿メリヤス靴下 2
・靴 1、藁やす手套 1
身体中で凍傷の発生が最も多い部位は手足であった。そのため全身、特に手足の防寒に注意を加えた。足には藁靴の上に紙および油紙を付け、頭部は藁で覆い、さらに油紙を上に踝部を緊縛した。外套の袖口も緊縛した。
寝具としては一般に毛布を支給した。遭難地の気温はマイナス4度ないしマイナス10度であり、捜索初期には運搬の不便もあって毛布は1人約3枚であったが、その後3月1日以降は1人平均5〜6枚を得るようになった。
【給養(食事)】
体内の燃焼作用は旺盛で、大なる体力の減損を来した。空気が寒冷であれば皮膚を刺激し、吹雪の激しい各兵は夜も疑眠(うとうと)のまま寒い寝床に就いた。
食糧は初期においては増給した。2月中旬頃より漸次善良(良好)となった。
【捜索隊の生活状況】
概括すれば、1月28日に捜索を開始してから2月4日~8日の間が最も苦しい時期であった。雪中の露営が続き、廠舎の状況も劣悪であった。特に2月4日以降は天候が猛烈に悪化し、暴雪の侵入を防ぐために寸時も安息を得られなかった。天幕では粉雪の侵入を防ぐことが困難であった。
2月9日頃から2月下旬にかけて徐々に設備が完備し、平常の屯営にいるのと大差なくなった。
捜索に従事した諸隊のうち、患者数は第五聯隊が最も多かった。これは戦友を危難から救い出そうとする誠意から、無理を押して従事したためである。
【三、捜索隊患者概況】
設備不完全な露営時期に患者が多発した。感冒(風邪)が最も多く、次いで呼吸器病、さらに凍傷が続いた。
| 所属部隊 | 新患員数 | 治癒 | 瘴死 | 転亡 |
|---|---|---|---|---|
| 歩兵第五聯隊 | 334 | 305 | ― | 29 |
| 歩兵第三十一聯隊 | 34 | ― | ||
| 砲兵第八聯隊 | 2 | ― | ||
| 野戦砲兵第八聯隊 | 9 | ― | ||
| 工兵第八大隊 | 1 | ― | ||
| 輜重兵第八大隊 | 9 | ― | ||
| 合計 | 346 | 305 | ― | 29 |
【四、生存者の救護および治療】
遭難者のうち捜索隊に救助され入院した者は8名であった。その経過の概要は以下のとおりである。
| 階級 | 氏名 | 発見状況 | 入院・治療経過 |
|---|---|---|---|
| 少尉 | 山口鑒 | 1月31日午後3時、大瀧平の下流谷底にて発見。四肢凍傷、歩行不能。精神異状なし。 | 2月1日夜入院。2月28日午後9時死亡。 |
| 大尉 | 倉石一 | 身体衰弱、四肢凍傷。歩行困難。 | 入院治療。治療の効なく(詳細は次頁) |
| 中尉 | 伊藤格明 | 2月2日、平澤小屋附近にて発見 | (次頁に続く) |
| 特務曹長 | 長谷川貞三 | 歩行する力わずかにあり | (次頁に続く) |
| 伍長 | 後藤房之助 | 鳴澤付近にて発見。立ったまま精神異状なし。四肢凍傷、歩行不能。 | 2月3日入院治療。 |
| 伍長 | 三浦武 | 下肢その他に凍傷 | 1月31日入院。経過不良。3月14日死亡。⚠️【注記:書き起こし当初「経過全治退院(3/21手術)」と誤記。一次資料スキャン(p.172)に「三月十四日死亡」と明記されており修正。】 |
【生存者治療記録(続き)】
| 階級 | 氏名 | 入院日 | 手術・治療 | 経過 |
|---|---|---|---|---|
| 一等卒 | 阿部卯吉 | 3月1日 | 上肢右手中央指・下肢右膝腿部截断 | 良好・全治 |
| 一等卒 | 山本德次郎 | 2月1日(手術3/26) | 左下肢截断 | 手術・回復 |
| 一等卒 | 及川平助 | 2月1日 | 上肢指末節截断。右下肢アキレス腱截断。 | 経過良好・全治 |
| 伍長 | 小原忠三郎 | 2月2日 | 四肢凍傷、2月20日手術、右膝下截断 | (記載続き) |
| 二等卒 | 佐々木正教 | 2月23日 | 両下肢大腿中央截断 | 経過不良。2月25日死亡。 |
| 二等卒 | 小野寺善平 | 2月23日 | 凍瘡、起立不能 | 死亡 |
| 二等卒 | 紺野市太郎 | 2月9日 | 全下肢右膝下截断 | 経過不良。二月二十七日死亡。 |
| 一等卒 | 後藤惣助 | 2月2日 | 四肢凍傷。手の自由あり。 | 比較的良好 |
| 伍長 | 村松文哉 | ― | 左前腕・右下肢中央截断 | (記載続き) |
【第六、死体取扱業務】
編成:大尉・内野秀三郎および五十嵐雄太郎が人員を統括した。
捜索隊死体検案所:第八哨所に設置。30日に業務を開始し、捜索隊が発見した死体を検案した。生存者発見の際は捜索係とともに対応し、平時の入院患者治療とは分離した。
| 哨所 | 階級 | 担当軍医 |
|---|---|---|
| 第八哨所 | 大尉 | (全般統括) |
| 高橋哨所 | 二等軍医 | 柏村・五十嵐雄三・折居 |
| 本多哨所 | 二等~三等軍医 | 中澤吉三郎・鶏ノ澤 |
【一、田茂木野死体収容所】
1月30日より業務開始。捜索に随伴した兵卒をもって初期の運搬・検案業務を行った。死体の身元確認が困難な場合、田茂木野に死体検案所を設けて識別を行った。
翌31日、以下のように編成を改めた。
| 階級 | 氏名 |
|---|---|
| 大尉 | 本郷藤四郎 |
| 少尉 | 三神定之助 |
| 特務曹長 | 後藤房吉 |
| 見習士官 | 後藤房吉 |
| 下士以下25名、計29名 | |
4月下旬に至り捜索業務縮小。2月下旬以降はさらに編成を小さくし、第五哨所の検案所と合併した。
【死体の暖屍法(融解処置)】
直ちに鉄製寝台を田茂木野に送り、炭火をもって死体を融解した。死体の融解には概ね6時間ないし12時間を要した。鉄製の台に炭火を置き、適度な温度を維持して毛繊製の蓙台に安置し、死体が完全に柔軟となるまで行った。
【三、屯営死体収容所】
屯営死体収容所は庶務部がこれを兼掌し、委員の中尉・中村中郎に下士以下若干名を付した。第二・第三号の雪覆練兵場を充て、死体を受領した。
業務手順:
一、検案書の受領
二、死体が聯隊に到着したとき姓名を確認
三、死亡届書の調査
四、埋葬届書の調製
五、遺族に通知(即日、聯隊長の名をもって筒井村戸籍役場に届出)
【屯営死体収容所の業務手順(続き)】
六、汽車輸送証明書の調製
七、汽車輸送する死体の員数および有無を青森駅長へ通知
八、死骸掛の下附願を調製
九、汽車輸送の認許と同時に、原籍村役場および遺族に電報にて通知
十、火葬および遺骨の発送
十一、火葬認許者への納骨箱の交付
【遺体の処分区分】
遺族の要求により、以下の3種類に分けて遺骸を処分した。
一、遺族が出頭せず、死体掛員において埋葬するもの
二、遺族に引渡し、汽車輸送するもの
三、死体掛員において火葬に附するもの
【死体の引渡手続】
遺族への引渡しは、遺族掛員の手を経て差出した順により毎日午後1時に行った。家族交付書により遺族が署名し、棺の両面に姓名札を付した。木札に固定し、白布に納棺して引き渡した。
凍結した死体は同様の手続きで融解し、全身が柔軟になった後に火葬用棺に納め、白布で覆い姓名を記した。
日本鉄道会社の好意により、遺体の汽車輸送は無料とされ、大いに遺族の便宜が図られた。火葬後の遺骨は小包便にて原籍地の町村役場宛に送付した。
【死体の取扱い】
死体の取扱いはこのように慎重を期したが、当初は凍結のために姓名の判別が困難であった。
5月10日、松森村付近の駒込川岸に漂着した遺体が発見された。9名の中には全く裸体の者もおり、顔面も変敗(腐敗)して姓名の判別が困難なものがあった。
遺族との確認作業では、裸体で身体の凍傷が激しい場合でも、身長・弾盒(弾薬入れ)付帯革・服の綴草・顔形・白歯虫歯などの特徴から身元を特定した。
第五中隊一等卒澤藤は右脚の特徴から確認。兵・佐藤勝治は戦友の証言により確定した。
5月22日、実父を招いて実験(照合)を行い、火葬に付した後に遺族を招いて受領させた。さらに新たに発見された死体は再調査を行った。
第六中隊伍長・佐藤哲治の死体は再発見により確認された。
5月28日が最終発見となり、すべての業務の終局を見るに至った。
【第七、家族掛設置業務】
一、家族掛設置当時の状況
1月27〜28日頃、行軍隊遭難の事実が知られると、電報により事情が広く流布し、遠近の人々が驚愕した。聯隊は応答に追われ、書簡をもって遭難者の名称を通知した。29日には郷里へさらに遺族方への依頼を行い、岩手・宮城両県知事にも打電した。30日に至り、「家族掛」と通称される組織を設置した。
家族との連絡事務が急増し、1月30日より家族および慰問者の来訪が漸く増加した。
【家族掛の編成】
委員座長:歩兵少尉・宮原正人
【一、委員担任事務】
(一)家族掛の業務:
・家族および慰問者の宅または宿泊所を訪ね、時々慰問し家族の痛恨を慰籍(慰める)
・生存者に対しては入院後の経過を迅速に通報
・死体発見および死体の屯営到着を速やかに通報
・家族の県事(行政手続)に関する便宜を図る
・家族および慰問者の宿泊所の便宜を図る
・万般にわたり家族の意見を取扱う
・死体処分に関する死体引渡書・受領証・貯金受領証・埋葬料受取の代書およびその手続きの指示
・死体引渡のほか、常に家族の宿泊についても配慮した
遭難者家族および慰問者のための懇談所を将校・兵の会食所の一部に設け、屯営付近に宿泊設備も準備した。
遺体の汽車輸送は日本鉄道会社の好意により無料とされ、大いに遺族の便宜が図られた。
(二)聯隊区司令部
軍隊と地方との交渉連絡に任じ、委員事務を補助した。家族宿泊者の取扱いおよび恩給請求に関する説明を行った。
(三)県出張員
青森県参事官および県庁書記は1月31日より出張し、家族掛と連携して聯隊と地方との連繋事務にあたった。