歩兵第五聯隊遭難始末

全文書き起こし・現代語訳
原本:昭和3年(1928)再版 | 国立国会図書館デジタルコレクション | Part 1(全20頁)

遭難始末

歩兵第五聯隊

左上隅に「1925」の書き込みあり。ただし本書の再版は昭和3年(1928年)であり、初版は明治35年(1902年)。「1925」は図書館の管理番号等の可能性がある。

遭難の顛末

歩兵第五聯隊〔編纂〕

遭難始末序


戰術之要ハ敵ニ勝ツニ以テ足レリトセズ寒暑ニ克チ雨雪ヲ凌キ困苦缺乏ニ堪フルノ鍛練素養アリテ始メテ數年前第八師管ニ轉任スルヲ以テ捷チ完フスベキ

余古今ノ史ヲ讀ム毎ニ此ニ感アリ前數年第八師管ニ轉任スルニ及ヒ寒氣ト戰ヒ之ニ克ツ所以ヲ闘下ノ諸隊ニ競フテ郁寒ヲ冒シ風雪ト戰ヒ之ニ克ツ所以ヲ研究スルヲ見テ私カニ之ヲ喜フ本年一月歩兵第五聯隊第二大隊田代ニ行軍シ雪中ノ行動ヲ鍛練スルニ方リ天候ノ激變ニ會ヒ稀有ノ慘禍ニ罹ル此日寒威烈風雪狂暴古ノ未ダ曾テ聞知セザル所ナリト云シ天災ナリ

至尊其志ヲ嘉シ其死ヲ悼ミ殊恩ヲ賜ヒ内外ノ人士亦金品ヲ寄セテ同情ヲ表スルモノ六十餘萬人ノ多キニ至ル其行ノ壯烈

ニシテ其災ノ悲慘ナル人ノ肺腑ニ徹スルニアラザルヨリハ安ンゾ能ク此ノ如クナルヲ得ンヤ幸ニ生存士卒數名アリ其目睹スル所ヲ拾ヒ遭難始末ノ編纂成ル叙事詳細一讀自カラ慘憺ノ悲境ニ在ルノ感アラシム而シテ冥々ノ間數訓ヲ攻究スル人ニ遺憺ノ

ナラス以テ國家ニ貢獻スル所アラバ蓋ニ死者ノ志ヲ紹グノミナラス又以テ帝國ノ威武ヲ四表ニ光被スルヲ得ン聊カ所ノ感ヲ

記序トナス

明治三十五年七月中澣

  陸軍少将 友安治延


遭難事變發生以來優渥ナル聖恩ニ浴シ熱誠ナル社會ノ同情ニ依リ幾多ノ時日ト巨額ノ費用トヲ投シ茲ニ搜索ノ業務終局ニ告クメニ弔魂ノ典ヲ擧クルノ感激措ク能ハサル所ナリ今ヤ

遭難者ノ爲一ハ以テ死者ノ偉勳ヲ永遠ニ傳ヘテ其勇魂ヲ慰メ一ニハ公ニシカ聖旨ニ奉リ且社會ノ同情ニ酬ヒント欲シ之ヲ以テ校ヲシテ之カニ報シ其編纂ノ任ニ當ラシム然レトモ事ヲ急速ニ要シ加フ

ル公務ノ餘暇ヲ以テ其編纂ノ体裁ト行文ノ美ト固ヨリ望ムベカラズ唯事實ヲ網羅センコヲ勉メタルノミ一言以テ巻首ニ冠ストナリ云爾

頁上部に赤色の蔵書印あり。友安治延は当時の第八師団長(旅団長級の上位者)。「中澣」は月の中旬を意味する雅語。

遭難始末 序文


戦術の要諦は、敵に勝つだけでは十分とせず、寒暑に打ち克ち、雨雪をものともせず、困苦欠乏に堪え得る鍛練と素養があって初めて、勝利を完全なものとすることができるのである。

私は古今の歴史を読むたびにこの感を深くしてきた。数年前に第八師管に転任し、配下の諸隊が競って厳寒に挑み、風雪と戦いこれに打ち克つ方法を研究するのを見て、密かに喜んでいた。本年一月、歩兵第五聯隊第二大隊が田代へ行軍し、雪中での行動を鍛練するにあたり、天候の激変に遭遇し、まれに見る惨禍に遭った。この日の寒威・烈風・暴雪は、古来いまだかつて聞いたことのないものであったという。まさに天災である。

天皇陛下はその志を嘉(よみ)し、その死を悼まれ、特別の恩典を賜った。内外の人々もまた金品を寄せて同情を表し、その数は六十余万人の多きに至った。その行動の壮烈にして、その災害の悲惨たること、人の心の奥底まで貫くものがなければ、どうしてこれほどの反響があり得ようか。

幸いにも生存した兵卒数名があり、その目撃したところを収集して遭難始末の編纂がなった。記述は詳細で、一読すれば自ずからあの惨憺たる状況の中にいるかのような感を抱かせる。そして、この記録が雪中行動を研究する者に教訓を与えるのみならず、もって国家に貢献するところがあれば、まさに死者の志を継ぐだけでなく、帝国の威武を四方に輝かせることにもなるであろう。いささかの感を述べて序文とする。

明治三十五年(1902年)七月中旬

  陸軍少将 友安治延



遭難事変の発生以来、天皇陛下の深い恩恵に浴し、社会からの熱誠なる同情を受け、多くの日数と巨額の費用を投じて、ここに捜索の業務が終了し、弔魂の典を挙げるに至った。感激のあまり措く能わざるところである。

遭難者のため、一つには死者の偉勲を永遠に伝えてその勇魂を慰め、一つには聖旨に奉じ、かつ社会の同情に報いんとして、将校にその編纂の任に当たらせた。しかしながら、事は急を要し、しかも公務の合間に行ったものであるから、その編纂の体裁や文章の美しさは望むべくもない。ただ事実を網羅することに努めただけである。一言を以て巻頭の序とする。

明治三十五年七月

  歩兵第五聯隊長 津川謙光

津川謙光は遭難当時の歩兵第五聯隊長。初版(明治35年)の序文は友安少将の序文と一体のものとして前頁に含まれている。

明治三十五年(1902年)七月

  歩兵第五聯隊長 津川謙光

遭難去ツテ正ニ二十七年漸ク當時ヲ忘却セントスル世人ノ腦裏ニ反シ八甲田山上ノ雪ハ愈々深ウシテ何事カチ吾人ニ暗示スルニ似タリ本書ハ由來明治三十五年ノ發行ニ係リ目下當時ノ現存セルモ一部ニ過キス其遂ニ絶滅スルヲ虞ル、同時ニ此際廣ク世上ニ公表セシ一ハ以テ後進ノ志氣ヲ鼓舞センノト欲ス

昭和三年十月

  歩兵第五聯隊長

   石井孝慈

遭難から正に二十七年が過ぎ、世間の人々の記憶から当時のことが次第に忘れ去られようとしている。しかし、それとは裏腹に八甲田山上の雪はいよいよ深く、何事かを我々に暗示しているかのようである。本書はもともと明治三十五年の発行にかかるものであるが、現在では当時のものが現存しているのは一部に過ぎない。このまま絶版となることを憂慮し、同時にこの機会に広く世に公表して、後進の志気を鼓舞したいと考え、死者の勇魂を慰めるとともに再版の序とする。

昭和三年(1928年)十月

  歩兵第五聯隊長 石井孝慈

遭難始末目次

題目
緒言
第一章行軍ノ目的計畫及實施
第二章行軍實施及遭難ノ景況二一
第三章遭難當時ニ於ケル青森附近ノ氣象四一
第四章救援隊派遣四四
第五章捜索救護計畫並ニ實施六九
第六章特別業務一二一
第七章遭難者ノ葬祭一二五
附錄遭難死亡者人名二二三
附錄二二二

遭難始末 目次

題目
緒言(まえがき)1
第一章行軍の目的・計画および実施5
第二章行軍の実施および遭難の状況21
第三章遭難当時における青森付近の気象41
第四章救援隊の派遣44
第五章捜索・救護の計画ならびに実施69
第六章特別業務121
第七章遭難者の葬祭125
附録遭難死亡者人名223

緒 言

緒 言

古來戰爭ノ勝敗ハ氣候ニ因テ左右セラル、コト多ク之カ爲ノ軍隊ノ受クル慘害ハ戰鬪ノ爲ニ生スル損傷ニ比シテ更ニ甚シキチ常トス彼ノ査斯第十二世ハ精強ノ軍ヲ提ケ魯奈破侖ニ侵入シタヒトスル彼ノ進退ノ自由ヲ失ヒ遂ニ敗蛯ニ歸シ魯奈侵入後年ニ一世ハ埃及ノ炎熱ト疫癘トニ數萬ノ人命ヲ隕シ蓋世ノ英傑永ク恨ヲ

侵入シテ査斯王ノ轍ヲ踏ミ全ク敗滅ニ陥リ又聞ク新田義貞ノ師北越ニ弓矢ヲ氣候ニ止メシニアラズヤ又聞ク新田義貞ノ師北越ニ弓矢ヲ擁シ豊公ノ征韓ノ役士卒玉ニ指ヲ落スアリト又

近クテハ廿七八年戰役ニ於テ遼東山東ノ嚴寒ニ凍傷患者四千餘人ノ多キヲ出シ朝鮮臺灣及内地ノ炎熱ニ日射病ニ打タレ患者

ト爲リシモノ七百餘人其一時戰鬪力ヲ失ヒタルモノニ至テハ蓋シ枚擧ニ遑ナカラン其壓倒殲滅スルナカラシト雖モ種ノ氣候ニ對シ術策ヲ講スルヲ以テ足レリトセズ尚ホサルベカラス

是ニ於テカ平時暖地ノ軍隊ハ凌暑ノ方法ヲ講セザルベカラス防寒踏雪ノ方法ヲ自然ノ義務トシ以テ軍事ノ改良進歩ヲ圖ル寒地ノ軍隊ハ敵ト對戰シテ之ヲ

トシテ努ムベキハ何レノ遠ニアルカ一考スルオヤ片ハ吾人カ戰場ニ職

我青森衛戍地ハ陸奥ノ一隅ニ偏在シ年々十二月ヨリ四月ニ至ル氣ニ就テ驅馳スベキハ一層ノ必要ヲ感スルニアルヲ以テ

間積雪ノ封スル所トナリ吹雪人ノ行動ヲ杜絶スルコト多ク一ノ閑路ニシテ

抑田代越ヘハ青森ヨリ三本木平野ニ通スル唯一ノ

明治八年我聯隊ノ此地ニ於テ寒氣攝氏氷點下十度以下ニ降ルコト常トス二月ノ頃ニ於テ寒氣攝氏衛生成績及ホカ遠カラシト雖モ盖シ妙ナルモノ影響ニ就キテ研究シ直接間接ニ軍事ノ進歩ニ

貢獻シタル酸ケ湯ヲ經テ十和田湖畔ニ至ル其必要ヲ認メ之カ實施ヲ獎勵シ著シキモナリ

三十二年大尉加藤房吉ハ盆々其必要ヲ認メ三十三年第一大隊ノ高野附近及第二大隊ノ小湊ニ於ケル雪中行軍第三十四年第三大隊ノ五本松附近ニ於ケル雪中行軍等ノ如キ頗ル有益ナル研究ヲセリ

隊ノ野邊地行軍三十年第三大隊ノ行軍ノ爲三本木平野ニ通スル唯一ノ間路ニシテ

我聯隊ノ爲ニハ兵略上最樞要ノ進出路トス故ニ夏期ニ於テ數回之カヲ通過ヲ試ミシモ未ダ冬期ニ於テ之ヲ經テルコト此間路ヲ試ミル遺憾トセリ昨年第三大隊ハ雪中難易路ヲ經テル

三本木ニ進出シ我旅團ノ作戰ヲ容易ナラシム年第二大隊ノ田代行軍ノ擧アル不時ノ障害ノ爲ノ遂ニ果サズ本

好機ヲ得サルヲ計畫アリ不時ノ遺憾トセリ昨年ノ第三大隊ノ雪中難路ヲ試ミル

シテ未ダ曾テ一隊ヲ終八甲田山麓ノ雪裡ニ埋没シタル偉大ノ迫セラレト雖尼ヲ然ルニ不幸ニシテ吾人ノ經驗上ノ非常ナルマ偶然ナリヤ然ルニ果サズ本

ノ恨事ナリト雖尼此ニ百ノ生靈ガ吾人ニ遺スル眞ニ大ノ教訓ハ蓋シ千古不滅ノ事蹟トシテ永ク後世ニ益スル所アランコトヲ

緒言は第6〜8頁にわたる。旧字体の縦書きを横書きに転写。一部判読困難な箇所あり。ナポレオンのロシア遠征、カール十二世の遠征、新田義貞の北越での戦い、豊臣秀吉の朝鮮出兵、日清戦争(二十七八年戦役)などの歴史的事例を引いて、気候が軍事に与える影響の重大さを論じている。

緒 言

古来、戦争の勝敗は気候によって左右されることが多く、そのために軍隊が被る惨害は、戦闘による損傷に比べてさらに甚だしいことが常である。かのスウェーデン王カール十二世は精強な軍を率いてロシアに侵入したが、進退の自由を失い、ついに敗退に帰した。またナポレオン一世はエジプトの炎熱と疫病のために数万の人命を失い、蓋世の英傑も永く恨みを残した。〔ナポレオンは〕さらにロシアに侵入してカール王の轍を踏み、完全な敗滅に陥った。また聞くところによれば、新田義貞の軍は北越で厳寒のために弓矢を構えることもできず、豊臣秀吉の朝鮮出兵では兵士が凍傷で指を落とす者もあったという。

近くは明治二十七・八年戦役(日清戦争)において、遼東・山東の厳寒に凍傷患者四千余人もの多数を出し、朝鮮・台湾および内地の炎熱には日射病に倒れた患者が七百余人に及んだ。一時的に戦闘力を失った者に至っては、枚挙に暇がないほどであった。

これらの気候に対する対策を講じることは急務である。平時において、暖地の軍隊は暑熱対策を、寒地の軍隊は防寒・踏雪の方法を研究することは自然の義務であり、これによって軍事の改良進歩を図るべきである。

我が青森衛戍地は陸奥の一隅にあり、毎年十二月から四月まで積雪に閉ざされ、吹雪のために人の行動が途絶することが多い。

そもそも田代越えは、青森から三本木平野に通じる唯一の間道である。明治八年に我が聯隊がこの地に駐屯して以来、寒気が摂氏氷点下十度以下に降ることは常であり、二月頃の寒気の衛生上の影響について研究し、直接間接に軍事の進歩に貢献してきた。酸ケ湯を経て十和田湖畔に至る経路の必要性を認め、その実施を奨励した成果は著しいものがあった。

明治三十二年、大尉加藤房吉はますますその必要を認め、三十三年に第一大隊の高野付近での雪中行軍、第二大隊の小湊での行軍、三十四年に第三大隊の五本松付近での雪中行軍など、極めて有益な研究を行った。

我が聯隊にとって、この間道は兵略上最も枢要な進出路である。夏期には数回これを通過したが、未だ冬期にこの経路を踏破したことはなく、これを遺憾としてきた。昨年、第三大隊が雪中の難路を経て三本木に進出し、我が旅団の作戦を容易にする計画があったが、不時の障害のためについに果たせなかった。

しかるに不幸にして、未だかつて経験したことのない非常事態により、一隊が八甲田山麓の雪中に埋没するという偉大なる犠牲が生じた。これは恨むべき事ではあるが、ここに百余の生霊が我々に遺した真に偉大な教訓は、まさに千古不滅の事蹟として永く後世に益するところがあるであろう。

緒言では、古今東西の軍事史における気候被害の事例を挙げ、八甲田雪中行軍の背景となった軍の防寒訓練の必要性と、田代街道が青森から三本木平野への唯一の軍事的要路であったことを説明している。明治33〜34年にかけて各大隊が段階的に雪中行軍の経験を積み重ねてきた経緯も記されている。

第一章 行軍ノ目的計畫及實施

第一章、行軍ノ目的計畫及實施

第一、行軍ノ目的

行軍ノ目的ハ戰時編成歩兵一大隊ヲ以テ雪中青森ヨリ田代ヲ經テ三本木ニ至ル一泊行軍ノ行軍計畫並ニ大小行李特別編成實施田代街道ヨ三本木ニ向ヒ青森ニ至ル行軍ヲ行フ

此ノ行軍ノ目的トセヤ否ヲ行軍實施ニ就テハ

第一章 行軍の目的・計画および実施

第一 行軍の目的

行軍の目的は、戦時編成の歩兵一大隊をもって、雪中に青森から田代を経て三本木に至る一泊行軍を行い、田代街道における大小行李(荷物輸送)の特別編成を実施・検証することであった。

第二、豫行々軍

コリ後尾ヲ奥地ニ寒着隊ヲ先頭トシ最目的三十里程約弐里強路ニハ四時間丘嶺路ニ屯營小峙ニ達スルヲ中隊ヲ編成シ難易ヲ田代ニ向ヒ一泊行軍ヲ行フ依ラ

シ午後二時過帰營ス屯營小峙前七時卅分出發全十時卅分丘嶺ニ達

第二 予備行軍

〔本行軍に先立ち予備行軍が実施された。〕午前七時三十分に屯営を出発し、全隊は十時三十分に丘陵に到達した。午後二時過ぎに帰営した。行程は約二里強、所要時間は約四時間であった。

第三、大隊長ノ判斷

屯營三本木間ハ里程約十三里ニシテ夏秋ノ候ニ於ラ小部隊ヲ以テ一日ニ通過セシ前例多シ然レ之雪中ニ通過ノ田代間(五里)ハ嶺澤間四里ヲ強シテ多シ然レ之雪中ニ通過セシ前例ナシ夏秋ノ候ニ於テ田代ヲ經テ三本木間ニ屯營

日ニ通過三里ノ三日行程ニ區分セバ他ノ一日行程ハ之ヲ得ル能ハ

然ルニ推知スベカラズ面シテ田代間ノ行軍ノ經驗足ル途中ニ露營ヲ田代ニ一日ニ要求スル之ニ

出來難キコトアリ軍ノ經驗ニ足ル

第三 大隊長の判断

屯営(青森)から三本木までの距離は約十三里で、夏秋の候には小部隊が一日で通過した前例が多い。しかし雪中に通過した前例はない。田代までの区間(五里)と嶺澤までの四里を含め、三日の行程に区分すれば実施可能と判断された。

しかしながら、田代間の雪中行軍の経験は不足しており、途中での露営が必要になる可能性もあり、一日で田代に到達することが困難になる事態も想定された。

大隊長(神成大尉の上官である山口少佐)は、青森〜三本木間約13里(約51km)を雪中で踏破した前例がないことを認識しつつ、3日行程での実施を計画した。

第四、行軍ニ關スル命令

大隊長ハ廿一日ヨリ大隊右兵ノ命令ヲ以テ左ノ通リ定ム

一、行軍参列者ヲ左ノ通リ定ム

大隊本部

聯隊長ハ廿三日ヨリ行軍ニ關シタメタリ

大隊長ハ神成大尉ノ主任ヲ探リ大隊長ノ以テ捜索ヲ認シ山口少佐ハ聯隊長期伍長ヲ以テ特別小隊ヲ編

教育委員主座ナリ

大隊長ハ神成大尉ニ中隊長ヲ主任トシ第三年度長期計畫ヲ立テ行軍ニ專ラ實施研究ノ衛ニ當ラシメタリ

第四 行軍に関する命令

大隊長は二十一日、大隊に対し以下の通り命令を発した。

一、行軍参列者を以下の通り定める。

聯隊長は二十三日より行軍に随行することとなった。大隊長は神成大尉を行軍の主任(実質的指揮者)とし、山口少佐は聯隊長期伍長をもって特別小隊を編成した。教育委員が主座(責任者)であった。

大隊長は神成大尉に中隊長としての主任を委ね、第三年度の長期計画に基づき、行軍の実施研究に専念させた。

ここで重要なのは、行軍の実質的な計画・指揮が神成大尉に委ねられていた点である。大隊長の山口少佐は随行する形であった。

軍醫 看護長 炊事掛軍曹 各一

將校 准士官及見習士官 下士以下四十名乃至四十五名(曹長ノ以下兵及特務給養卒及聯隊附任務)

二、部隊ノ編成ハ四中隊ヨリ成ル一中隊ニシテ其主ナル幹部ハ左ノ

但シ小隊長ハ列外者ヲ以テ交代スルコアルベシ

中隊長 神成大尉

小隊長

右ノ外

中野中尉 鈴木中少尉

小隊長 伊藤中尉 大橋中尉 水野中尉

中隊長 神成大尉

部隊の編成

各中隊は将校、准士官および見習士官、下士以下四十名ないし四十五名で構成された(曹長以下の兵および特務給養卒、聯隊附の任務者を含む)。

部隊は四個中隊から成り、主要な幹部は以下の通りである。

役職氏名階級
中隊長神成文吉大尉
小隊長伊藤格明中尉
小隊長大橋中尉
小隊長水野中尉
中野中尉
鈴木少尉

軍医、看護長、炊事掛軍曹が各一名付けられた。小隊長は列外者(非戦闘員)と交代することもあり得るとされた。

三、二十三日午前六時三十分第五中隊合前ニ整列スベシ

服裝並ニ携帯品ハ一般防寒外套ヲ着用シ藁靴ヲ穿チ上等兵以下飯盒雜嚢及水略裝ニシテ携帶品ノ如シ簡ヲ組入ヲ一般午食及糧食三分ヲ併セ携行スベシ下士以下飯盒雜嚢容ルベシ

四、輪送員トシテ各小隊特別小隊ヲリ兵卒十四名ヲ差出スベシ其服裝ハ當日午前五時三十分マデニ各小隊掛軍曹ノ許ニ差出スベシ

五、右ノ普通施ニ圖スル細事ハ凡テ神成大尉ノ指示ヲ受クベシ

三、二十三日午前六時三十分、第五中隊舎前に整列すべし。

服装ならびに携帯品は、一般防寒外套を着用し、藁靴を履き、略装とする。携帯品としては上等兵以下は飯盒・雑嚢および水筒を携行し、食糧として午食および糧食三食分を併せ持つこと。下士以下は飯盒・雑嚢に収容すること。

四、輪送員(輸送担当)として各小隊から特別小隊に兵卒十四名を差し出すべし。その服装は当日午前五時三十分までに各小隊の掛軍曹のもとに届け出ること。

五、以上の施行に関する細部事項はすべて神成大尉の指示を受けるべし。

第五、大隊長ノ與ヘタル注意

二十二日午後大隊長ハ中隊長ヲ集メテ左ノ命令ヲ與ヘタリ

今回ノ行軍ハ現在ノ情況ニ於テ地形上或ハ里程稍遠キノ感アレ

第五 大隊長の与えた注意

二十二日午後、大隊長は中隊長を集めて以下の注意事項を与えた。

「今回の行軍は、現在の状況において地形上あるいは距離がやや遠い感がある。」

大隊長(山口少佐)が出発前日の1月22日午後に中隊長を集めて注意事項を伝達した場面。距離の長さについて懸念を示していたことがわかる。

第六、軍醫ノ呈出シタル衛生上ノ注意

一、雪中行軍ハ非常ノ隊碍ニ遭遇スルコトナクバ目的地ニ達シ得ルモノト信ズ

而シテ非常ノ隊碍ニ遭遇スルコトナクバ目的地ニ達シ得ルモノト信ズ

爐ヲ携帶スルコ一法ナラシ途中將校以下充分防寒ニ成シ得レバ藁靴ヲ懷ニ

衛生上ニ關シテハ軍醫ノ注意ヲ實行スベシ

一、雪中行軍露營ノ際ハ薪炭ヲ携行スベシ途中ニアリテモ將校ヲ以テ至ル所ニ充分防寒ニ注意シ途中破損ノ虞ナカラシムベシ成シ得レバ藁靴ヲ懷ニ

一、三分時行軍休止時間ヲ超ヘサルヲ

一、休止間ハ各兵手指ヲ摩擦シ殊ニ足ヲ可成温包シ凍傷ヲ絶ヘス

一、全身ヲ可成温包シ凍傷大原因ヲ

一、ザレハ陰部ノ凍邁ス大ナル原因ヲ

一、腹ハ冷陰部ノ凍邁ス

一、雪中行軍營舎ノ際ハ多量ニ飲ムハ凍傷ルノ權ニ害キ眠リ生ヨリ睡眠セサル

一、手指鼻踵其他全時諸部ノ赤色ヲ呈スルハ凍傷ヲ起シ易キヲ以テ早ク乾燥スルコ

一、濡調ハ可成早ク乾燥スルコト

一、酒ヲ多量ニ飲ムハ凍傷ルノ楔トナル故ニ飲酒家モ必ス酒ヲ慎ムベキコ

第六 軍医が提出した衛生上の注意

軍医は以下の衛生上の注意事項を呈出した。

一、雪中行軍は、非常の障害に遭遇しなければ目的地に到達できるものと信じる。

一、雪中行軍・露営の際は薪炭を携行すべし。途中においても十分に防寒に注意し、装備の破損がないようにすべし。できれば藁靴を予備として懐に入れておくこと。

一、三十分ごとに行軍休止時間を設けること。

一、休止の間は各兵が手指を摩擦し、特に足を可能な限り温かく包み、凍傷を防ぐこと。

一、全身を可能な限り温かく保つこと。凍傷の大きな原因となる。

一、腹部や陰部の冷えは凍傷の大きな原因となる。

一、雪中行軍や露営の際に大量に水を飲むことは凍傷を招きやすく、また睡眠中は特に注意すべきである。

一、手指・鼻・踵その他全身の諸部が赤色を呈するのは凍傷を起こしやすい兆候であるから注意すること。

一、濡れた衣服は可能な限り早く乾燥させること。

一、酒を大量に飲むことは凍傷の契機となるため、飲酒の習慣がある者も必ず酒を慎むべきこと。

軍医が出発前に提出した衛生上の注意事項。凍傷予防の具体的指示が含まれているが、後の遭難時にはこれらの注意事項を実行する余裕が全くなかったことが悲劇性を物語る。特に「酒を慎むべし」という注意は、後に兵士たちが体を温めるために酒を飲み、かえって体温低下を招いた事実と対照的である。

第七、神成大尉ノ計畫

左ニ揭クル神成大尉ノ死体ト共ニ發見セラレタル原稿ニシテル大尉ノ計畫ハ大隊長ノ意圖ヲ受ケ細部ノ計畫ヲ立テタル

ガ如シ故ニ特ニ原橋ノ儘揭載ス

一、濕調ハ可成早ク乾燥スルコト

レタルガ修正改削シタル所多クハリ此計畫ニ因テ實施セラ

想 定

八戸平野ニ侵入セル敵ニ對シ陸羽街道ヲ東進スル混成旅團ノ作戰ヲ容易ナラシム

此ノ任務ハ歩兵第五聯隊第二大隊ハ一月二十二日夜青森西営ニ宿營スル

右側衛ノ任務ハ田代街道ヲ三本木ニ進出シ我旅團ノ作戰ヲ容易ナラシム

一、行軍ノ目的

積雪ノ時期ニ於テ田代街道ヲ三本木ニ進出スルモノトシテ行軍ノ目的ハ

一、李運搬法ノ研究

第七 神成大尉の計画

以下に掲載するのは、神成大尉の遺体とともに発見された原稿である。大尉の計画は大隊長の意図を受けて細部の計画を立てたものであり、そのため特に原稿のまま掲載する。(ただし修正・改削された箇所も多い。この計画に基づいて実施された。)

想定

八戸平野に侵入した敵に対し、陸羽街道を東進する混成旅団の作戦を容易にするため、歩兵第五聯隊第二大隊は一月二十二日夜、青森西営に宿営する。右側衛の任務として田代街道を経て三本木に進出し、我が旅団の作戦を容易にする。

行軍の目的

積雪の時期に田代街道を経て三本木に進出するものとし、行軍の目的は以下の通りとする。

一、荷物運搬方法の研究

極めて重要な記述。神成大尉の計画書は遺体とともに発見されたもので、原文のまま掲載されている。これは「想定」として仮想敵を設定した演習形式の行軍であったことを示す。八戸平野に侵入した敵に対する混成旅団の側面支援という戦術的シナリオが設定されていた。

中隊長 神成大尉

小隊長 水野中尉

長期伍長

第一小隊長 伊藤中尉

第二小隊長 鈴木少尉

第三小隊長 大橋中尉

第四小隊長 水野中尉

特別小隊

中隊長 神成大尉

第五中隊下士卒

第六中隊下士卒

第七中隊

第八中隊

行程表

宿營地里程
第一日田代宿營約五里半
第二日嶺澤附近露營約四里半
第三日三本木約三里

備考 宿營地着部隊ノ里程ハ三十分乃至一時間ヲ以テ循環交代ス

五、宿營地ノ部隊及給養豫定

編成

役職氏名
中隊長神成大尉
第一小隊長伊藤中尉
第二小隊長鈴木少尉
第三小隊長大橋中尉
第四小隊長水野中尉

特別小隊を含め、第五・第六・第七・第八中隊の下士卒で構成された。

行程表

目的地宿営方法距離
第一日田代村落宿営約五里半(約22km)
第二日嶺澤付近露営約四里半(約18km)
第三日三本木約三里(約12km)

備考:寒地着部隊は三十分ないし一時間をもって循環交代する(先頭で雪を踏み固める部隊を交代制にする)。

三日間の行程で、第一日の目的地は田代(約22km)。第二日は嶺澤付近で露営(約18km)。第三日に三本木到着(約12km)。合計約52kmの行程であった。先頭部隊の交代制(ラッセル交代)が計画されていたことがわかる。

研究事項ノ分擔

一、歩兵一大隊三本木迄進出スルモノトシテ行李運搬ノ研究 鈴木少尉

二、全宿營ノ研究

三、全行進法ノ研究

四、衛兵ノ研究

五、炊事ノ研究

六、携行スベキ需用品ノ研究

七、路上測圖

  今泉見習仕官 中野中尉 伊藤中尉 田中見習士官 大橋中尉 水野中尉 鈴木少尉

第八、衛生上ノ調査豫定項目

右研究事項ノ分擔ハ出發前日神成大尉ヨリ各官ニ達シタリ携行用品ト雪踏行軍用ト

左ニ揭クルハ永井軍醫ノ机上ヨリ得タルモノニシテ運搬用トシテ雪踏十四臺踏雪用品

調査計畫ノ一端ヲ此ニ揭グ

一、氣象天候氣溫風力風向ノ調査豫定項目

二、行程及行進ノ難易積雪ノ深淺及其性狀

三、携帶品目及其負担量

四、疲勞ノ度體温(發汗ト)ノ關係口渴ノ度體重ノ増減

五、被服限ト寒氣体温(發汗ト)ノ關係及其効力實驗

六、耳代用眼鏡ノ必要有無及其効力實驗

七、銃營地特別攝影法ノ顧慮實驗

八、露營地特別攝影法ノ顧慮實驗

九、水筒ノ米飯ノ防寒携帶法及内容物ノ凍水實驗

十、飲酒飯盒骨柳握飯ノ三ニ付驗シ兵卒十名ヲ要ス

(是等ノ少ノ試驗ノ爲ニ特ニ兵卒背嚢内ニ入レタルモノト區別比)

十一、患者ノ景況 十二、患者運搬法

研究事項の分担

各将校に以下の研究項目が分担された。

研究項目担当者
一、歩兵一大隊の三本木進出における荷物運搬法の研究鈴木少尉
二、全宿営の研究今泉見習士官
三、全行進法の研究中野中尉
四、衛兵の研究伊藤中尉
五、炊事の研究田中見習士官
六、携行すべき需用品の研究大橋中尉
七、路上測図水野中尉

これらの研究事項の分担は、出発前日に神成大尉から各将校に伝達された。

第八 衛生上の調査予定項目

以下は永井軍医の机上から得られたもので、調査計画の一端を掲げる。

一、気象(天候・気温・風力・風向)の調査
二、行程および行進の難易、積雪の深さとその性状
三、携帯品目およびその負担量
四、疲労の程度と体温(発汗)の関係、口渇の度合い、体重の増減
五、被服と寒気・体温(発汗)の関係およびその効力の実験
六、耳当て・代用眼鏡の必要性の有無およびその効力の実験
七、銃の特別撮影法(写真記録)の考慮・実験
八、露営地の特別撮影法の考慮・実験
九、水筒の米飯の防寒携帯法および内容物の凍結実験
十、飲酒・飯盒・握飯等の比較実験(特に兵卒十名を要する。背嚢内に入れたものとの比較)
十一、患者の状況
十二、患者運搬法

この行軍が単なる移動ではなく、雪中行軍に関する包括的な「研究」であったことがわかる。気象観測、装備の防寒効果、食糧の凍結防止、飲酒の影響、患者搬送法など、多岐にわたる調査項目が設定されていた。永井軍医の調査計画書は、神成大尉の遺体と同様に重要な一次資料である。

第二章 行軍實施及遭難ノ景況

第二章 行軍實施及遭難ノ景況

第一日(一月二十三日)

午前六時三十分行軍隊ハ所命ノ如タ集合シ其編成終ルヤ神成大尉ハ木日豫定ノ行軍計畫ノ概略ヲ示シ更ニ中隊ニ向テ行軍ヲ行フ

一、中隊ハ本日豫定ノ如ク火打山ヲ經テ田代ニ向ヒ行軍ヲ行フ

二、行軍序列ハ伊藤、鈴木、大橋、水野小隊ニシテ中野特別小隊之ニ次キ行李ハ最後尾ニ續行スベシ

三、先頭小隊ハ寒地着ヲ毎五十分ニ小休止ヲ穿チ通路ヲ踏開シ行李ノ行進ヲ容易ナラシム

四、行軍々々紀ヲ守ルベシ但シ幸畑村迄ノ達ハ寒地着隊ヲ用ユルヲ以テ此時期ニ於テ先頭小隊ハ順次

五、子ハ寒地着ヲ毎五十分ニ小休止ヲ穿チ通路ヲ踏開シ行軍隊ノ行進ヲ容易ナラシム衛生法ノ實行ヲ意ルベカラス

日ハ青森ヲ七時四十分寒地着隊ト共ニ出發ス此隊ハ午前六時五十五分二列縱隊ヲ以テ屯營ヲ出發シ

シカラ先頭小隊ハ七時十分通路ヲ踏開シ始メタ寒地着ヲ用ユル約十五分ノ休憩ヲ終ヘ行李ノ運搬手ハ被服ノ改裝ヲ着シム寒地着ヲ穿チ普通外套ヲ搭載セシム行李ヲ搭載運搬手ハ

行軍ハ景況ニ於テ午前六時五十五分出發午前七時ニ寒地着隊共ニ進ス

催シナカラ先頭小隊ヲ始メ三人ヲ先頭ト次ノ二人ハ先頭列ノ間隔ニ行進シ逐次

寒地着隊ハ三人ヲ先頭トシ防寒外套ヲ穿チ寒地着ヲ用ユシム寒地着ヲ穿チ通路ヲ踏開シ行李ノ行進ヲ容易ナラシム

田茂木野東方ヨリテ傾斜漸クー線ナシコヲ落シ一休止行軍隊ハ屋定外ノ急ニ休止シ行軍隊ノ止マタ四人ニ觀ミ隊ノ此ニ到着大ヤ大ニ

十一時三十分行軍隊ハ小峠丘上ニ達シ伊藤小隊ノ休止ヲ能ハ至不行軍ヲ運搬スベキ行李ノ到着大ヤ大ニ

サル能力ス行軍隊ハ屋定外ノ急傾斜漸クー線ナシコヲ落シ小峠丘上ニ達シ伊藤小隊ヲ

ヲ以テ至不行軍ヲ運搬ス行李ノ能力ハ伊藤小隊ノ到着十一時三十分ノ行軍休止ヲ經テ此ニ達シ又蒲濡レタル

時二風雪漸ク強ク三々五々集團シテ後携帯ノ米飯及水藏ハ約二十ク加フ氣温又零下二十度以上ニ及ビ假眠ヲ防

呈シ風雪亦甚シ

後方行李ノ景況ノ顧ミレバ其離隔甚シキヲ近ヨ田代ノ遠景ヲ眺望スル時

午後四時十分頃行軍隊ハ馬立場ニ過ギ三吉羅米突ヲ吉羅米突乃至三吉羅米ニ達シ高地ニ達シキ其遠隔

間ニ登り降りノ急傾斜坂ナル約十分休止ノ後再ビ行進ヲ開始セリ後方行李ノ行進ヲ知り行進意困難ヲ極メ其速度一時ニ

午後二時頃吉羅米突附近ヨリ風雪漸ク加ハリ氣温又零下降シ雲量多ク視界甚ダ惡シ

第一日(1月23日)の行軍記録。原文は判読が極めて困難な箇所が多い。午前6時55分に屯営を出発。先頭小隊が雪を踏み固めながら進んだ。田茂木野東方から傾斜が始まり、11時30分頃に小峠丘上に到達。午後2時頃から風雪が強まり、気温が氷点下20度以上に低下。午後4時10分頃、馬立場付近に到達したが、後方行李との離隔が甚だしくなっている。

第二章 行軍の実施および遭難の状況

第一日(明治三十五年一月二十三日)

午前六時三十分、行軍隊は命令通り集合し、編成が終わると神成大尉は本日予定の行軍計画の概略を示した。

命令の要旨:

一、中隊は本日の予定通り、火打山を経て田代に向け行軍を行う。

二、行軍序列は伊藤・鈴木・大橋・水野の各小隊の順とし、中野特別小隊がこれに続き、行李(荷物隊)は最後尾に続行すべし。

三、先頭小隊は寒地着(防寒装備の先遣隊)をもって五十分ごとに小休止を行い、通路を踏み開いて行李の行進を容易にすること。

四、行軍規律を守るべし。ただし幸畑村までは寒地着隊を活用する。先頭小隊は順次交代する。

五、衛生法の実行を怠るべからず。

行軍の経過:

午前六時五十五分、二列縦隊をもって屯営を出発。午前七時に寒地着隊とともに進発した。先頭小隊は七時十分頃から通路の踏み開きを開始した。

先頭は三人一組で進み、次の二人が先頭列の間に入って交代しながら行進した。防寒外套を着用し、寒地着を履いて通路を踏み開き、後続の行進を容易にした。

田茂木野の東方から傾斜が次第に急になり、行軍は困難を増した。十一時三十分頃、行軍隊は小峠の丘上に到達した。

午後二時頃から風雪が次第に強まり、気温も氷点下二十度以下に降下した。携帯の米飯および水筒の水は凍結し始めた。風雪もまた甚だしくなった。

午後四時十分頃、行軍隊は馬立場付近の高地に到達したが、後方の行李との距離は甚だしく開いていた。急傾斜の登り降りで行進は困難を極め、速度は著しく低下した。

第一日の時系列まとめ:
06:30 ― 集合、神成大尉が計画概略を伝達
06:55 ― 屯営(青森)出発、二列縦隊
07:00 ― 寒地着隊とともに進発開始
07:10 ― 先頭小隊が通路踏み開き開始
~11:30 ― 小峠丘上に到達
~14:00 ― 風雪強まる、気温氷点下20度以下に
~16:10 ― 馬立場付近高地に到達、後方行李と大きく離隔
この後、田代方面に向けさらに前進を続けるが、天候は悪化の一途をたどる。

二百米突余ノ森達キモノハ未ダ後ノ中ノ突然ニ於テ休憩ヲ同時ニ發セシ藤本鈴木大橋小隊ニ命シ行軍隊ハ同地南方約

隊ノ編成ヲ齊シム田代ニ向ヒ出發セシメタリ

行李ノ此地ニ達シヌ頃日既ニ黄昏ニ近カリシモ恰モ休憩十四日ノ月明ヲ利用スル便アリ行進ノ進

二相當シ鳴澤ノ鶏谷ニ沒レリ此附近ハ領斜急ニシテ一分ハ二到

路ヲ辿リシモ鳴澤東方高地附近ニ達スル頃運搬手ヤ復タ困難ニ陷リ名状スベカラス特ニ縄ハ二到

鳴澤東方高地附近ニ達スルモ来大部ハ終ニ困難ニ状態スベカラス特ニ運搬ヲ極メ其高嶮ニ陷リ行軍設營隊ハ路ヲ失ヒ先行セシ

大隊ハ行軍設營隊ヲ合シ藤本防寒外套ヲ着用セシメリ設營隊ハ困難ヲ極メ

雨見習士官ヲシテ田代方面ヲ偵察セシメタルニ風雪頻リシ大隊最モ進路険ニシテ天底晴レトナリ通過スルヲ能ハ

行李ヲ跟蹤又復タ命ス加ナラス是ニ於テ露營ニ決シ各小隊長ニ左ノ命令ヲ

命 令

一、中隊ハ此附側ニ於テ露營スルニ決ス

二、各小隊及飲事小隊ニ就クベシ現在ノ位置ハ彼處現地ヲ示ス

三、本部及飲事小隊ハ直ニ兵卒十五名ヲ派遣シ輜重隊ニ助力シ且ッ此地ニ露營地ヲ撰定シ直チニ

四、大橋小隊ハ直ニ兵卒十五名ヲ派遣シ其設備ニ着手シ積雪ヲ掘開作業ヲ中止シ雪上ニ龍ヲ置キ其一部ニ以テ小隊長以下約四十名

全時配分シ炊事場ノ設備ニ着手シ積雪ヲ堀開シ其一部ニ以テ燃料樹枝ヲ搜收セシメタリ

午後九時頃ニ小隊ノ設備ニ約六貫目行李ノ全部露營地ニ到着セシ其一部ヲ燃料樹枝ヲ搜收セシメ各小隊ニ分配ス

露營ノ景況

八度十二三度ニ下リ各小隊ハ約五十リ十二三度ニ下リ各小隊ハ約二十リ長サ約二十米突深サ約五米突ノ雪壕ヲ掘リ寒氣ハ酷シク零下

此夜風雪甚ダ強カリシモ龍ヲ設置セニ八尺ニ及ビプ其地ニフカク樹枝ヲ探収セシメ各小隊ニ分配ス

達スルヲ得ズ因テ掘開作業ヲ中止シ雪上ニ龍ヲ置キ上ニ敷物ヲ敷キ之ニ就ク

間餘ニシ幕物中手ノ感器具ヲ以テ之ニ屋蓋ヲ失ノス貫ク多クノ積雪深クナシ其少量ヲ苦心ヲ以テ得タリ約四十名ニ對シ約六時

炊事場ノ設備ナカリシ以テ一塊唯一個ノ燎火アルノミ假眠ニ各人交互

木炭ハ僅ニ四十足ラズ得タリ

焼火次第ニ過ギサリ炊釜ハ更ニ附リ銅平釜一個ノ儘炊飯ス水ハ先ヅ雪ヲ融解シテ米ヲ炊飯スルモ炊飯水ノ發見ハ困難ナリ石ノ如タ堅ク凍リタル先ヅ雪ヲ融解シ

之ヲ作成セルヲ後炊釜ニ温メ分配シタレドモ中ヘ石ノ如ク堅氷ヲ凍リテ非常ニ配ニ

ヲ先ヅ効果ナシ分配得タルモノ酒ハ凍リ辛ウジテ成ツタ酒ヲ分ケ配ス

夜午前一時ニ至リ此間炊事掛ノ作業ナカリシ能ハサルヲ以テ非常ニ飢ヲ凌クノ料ニ

トニ分配シタレドモ石ノ如ク凍レ飯ヲ分ケ配リ酒ハ凍リ

先ヅ成功ノ効果配ナシ好酒家モ之ヲ飲ム堪ヘザリキ

第一日夕刻以降の露営状況。鳴澤東方の高地付近で進路を見失い、露営を決断。雪壕を掘って露営するが、深さ約5メートルの雪壕でも底に達することができなかった。炊事は困難を極め、わずか一個の銅平釜で炊飯。米飯は石のように凍り、酒も凍結して飲むに堪えなかった。

露営の決断と設営

約二百メートル先の森に達した者もあったが、行李が到着した頃にはすでに黄昏に近く、十四日の月明かりを利用しようとしたが、鳴澤東方の高地付近に達する頃には運搬が再び極めて困難になった。設営隊は道を見失い、先行した部隊との連絡も困難となった。

雨見習士官を田代方面に偵察に出したところ、風雪が激しく、進路も険しく天候回復の見込みがなかったため、露営を決定し、各小隊長に以下の命令を発した。

命令:

一、中隊はこの付近において露営することに決する。

二、各小隊は現在の位置において露営設備に着手すべし。

三、本部および炊事小隊は直ちに着手すること。

四、大橋小隊は直ちに兵卒十五名を派遣し、積雪を掘り開いて露営地の設備に着手すること。

露営の状況:

午後九時頃、全行李が露営地に到着し、各小隊に物資を分配した。

寒気は酷しく、気温は氷点下十二、三度に下がった。各小隊は長さ約二十メートル、深さ約五メートルの雪壕を掘ったが、底の地面に達することができず、掘削作業を中止して雪上に敷物を敷いて就寝した。

この夜、風雪は甚だ激しく、積雪は八尺(約2.4m)にも及んだ。

炊事の困難:

炊事場の設備は不十分で、わずかに一個の焚き火があるのみであった。木炭は約四十(斤)にも足りず、銅平釜一個で炊飯を行った。水はまず雪を融かして使用したが、米飯は石のように堅く凍ってしまい、配給するも食べることが極めて困難であった。酒も凍結し、辛うじて配分したが、好酒家でもこれを飲むに堪えなかった。

仮眠は各人が交互に行ったが、夜は午前一時に至るまで炊事の作業に追われた。

第一日露営の状況まとめ:
・鳴澤東方高地付近で進路を見失い露営を決断
・気温:氷点下12〜13度
・積雪:八尺(約2.4m)以上
・雪壕を掘るも地面に到達できず
・炊事用の燃料・器具が著しく不足
・米飯も酒も凍結して食用困難
・この段階では、まだ露営としての体制を維持していた

第二日(一月二十四日)

次猛烈ニシテ寒氣頗ルニ加ハリ氣温又零下二十度以上ニ及ビ假眠ヲ防クノ手段トシテナリ是ヲ以テ最モ多ク假眠セシ者モ僅カニ一時半以上ニ凍傷ヲ防

出發前ノ景況

大隊長山口少佐ハ上ノ現況ヲ目撃シ且ッ各中隊長等ノ意見ヲ参照シ左ノ判斷ヲナセリ

一、行軍ハ田代一泊ノ豫定ナリシモ情況之ヲ許サス此地ニ露營スルノ已ムナキニ至レリ

一、昨夜一般ノ給養不十分ナリ

一、本日ノ天候ハ昨日ニ比シ非常ニ風雪寒冷共ニ甚シキモ決シテ出發ノ時ニ非ズ

一、掃晨前ノ出發ハ本日程度ニ非ズ

ハ掃以上ノ決心ニ依リ五時出發ノ驅定ヲ改メ

是ニ於テ神成大尉ハ各小隊長ヲ集メ左ノ命令ヲ

命 令

一、中隊ハ午前二時半營地出發歸營ス

二、各小隊ハ今ヨリ其準備ヲナシ出發カニシテ出發順序ハ口演ス(五時ノ豫定ナリシ)即時出發歸營ス

三、各中隊ハ伊藤鈴木大橋水野小隊ニ次代ヲ命シ特別小隊次ニ行李ノ各中隊ノ行進ニ嚴重ニ注意スベシ

四、各中隊長特務長ハ行軍ノ景況ヲ調査シ特務曹書及行李運搬手ヲ取締リノ

長ハ當番卒ヲ指揮シ右ノ命令ニ依リ小隊長ハ其隊ヲ集合シ特別小隊ニ向ヒタリ

大隊ハ伊藤中尉ハ最先頭ニ立チ四面暗憺行路甚タ難カリキ

尤吹雪盆々猛烈ニシテ方向ヲ定メ之ノ指導セリ然レ

第二日(1月24日)の記録。前夜の仮眠は最長でもわずか1時間半程度。気温は氷点下20度以上に低下。大隊長山口少佐は状況を判断し、当初の午前5時出発予定を繰り上げて午前2時半に露営地を出発し帰営(青森に引き返す)ことを決定。伊藤中尉が最先頭に立ったが、四面暗澹として行路は極めて困難であった。

第二日(明治三十五年一月二十四日)

猛烈な風雪が続き、気温は氷点下二十度以上に達した。仮眠をとった者も最長でわずか一時間半程度に過ぎず、凍傷を防ぐ手段を講じるのが精一杯であった。

出発前の状況:

大隊長山口少佐は現況を目の当たりにし、各中隊長等の意見を参照して以下の判断を下した。

一、行軍は田代で一泊の予定であったが、状況がこれを許さず、この地で露営せざるを得なかった。
一、昨夜の給養(食事の供給)は不十分であった。
一、本日の天候は昨日に比べ非常に風雪・寒冷ともに甚だしい。
一、このままでは出発困難である。

以上の判断により、当初の午前五時出発の予定を変更し、帰営(青森への引き返し)を決定した。

これにより神成大尉は各小隊長を集め、以下の命令を発した。

命令:

一、中隊は午前二時半、営地を出発し帰営する。

二、各小隊は直ちにその準備をなし、出発順序は口頭で伝達する(当初は午前五時出発の予定であった)。

三、行軍序列は伊藤・鈴木・大橋・水野の各小隊の順とし、特別小隊、次いで行李が続く。各中隊の行進に厳重に注意すべし。

四、各中隊長・特務長は行軍の状況を監視し、特務曹および行李運搬手を厳しく取り締まること。

帰営行軍の開始:

大隊は命令に基づき帰営行軍を開始した。伊藤中尉が最先頭に立ったが、四面は暗澹として行路は極めて困難であった。吹雪はますます猛烈となり、方向を定めることさえ困難な状況であった。

第二日の重大な転換点:
・大隊長山口少佐が「帰営」(青森への引き返し)を決断
・当初の田代行き継続ではなく、撤退を選択
・午前2時半に露営地出発(予定より2時間半早い)
・しかし吹雪と暗闘の中で方向を見失い、ここから悲劇が加速する
・気温:氷点下20度以上
・Part 1はここで終了。Part 2以降に遭難の核心部分が続く。