本資料は、当事者である歩兵第五聯隊自身が編んだ連隊史『歩兵第五聯隊史』(大正7年刊)のうち、八甲田雪中行軍遭難を扱った第七節「八甲田の吹雪」(p.140〜151)の全文書き起こしと現代語訳である。事件から16年後に連隊側が「自隊の歴史」として簡潔にまとめた記述であり、詳細な公式報告書『遭難始末』とは叙述の粒度・力点が異なる。軍歌を歌って一夜を凌いだこと、喇叭が唇に凍りついて鳴らなかったこと、救援隊と見えたものが樹木の切株であったことなど、連隊史ならではの簡潔で印象的な描写が含まれる。
明治三十五年(一九〇二年)一月、第二大隊は東津軽郡田代、八甲田山麓において、非常な酷寒と吹雪に遭遇し、参加者のほとんどが凍死するという悲劇を演じた。これは古今に類例のない惨事であった。
この行軍の目的は、雪中露営の実験を行い、その経過をもとに、戦時編成の歩兵一大隊ならびに大小行李(補給部隊)の特別編制案を立てることにあった。そこで一個中隊を編成し、二十名からなる踏雪隊(雪を踏み固めて道を作る先導隊)を先頭に立て、青森の屯営から田代を経て三本木平野まで進出できるかどうかを判断しようとした。聯隊長(津川中佐)もこの目的と判断を是認し、大隊長・山口少佐に集成中隊を編成させた。
中隊長は神成文吉大尉。第五中隊から下士卒四七名、第六中隊から四四名、第七中隊から四四名、第八中隊から四九名、第一・第二大隊の長期下士二二名で編成。列外として大隊長・山口少佐、與津景敏大尉・倉石〔一〕大尉、見習士官の田中稔・今泉三太郎、三等軍医の永井〔源之亟〕らが加わった。
服装は略装で、一般防寒用の外套・手袋以下、飯盒・水筒・雑嚢を携帯。昼食・間食として丸餅二個(残り四個は行李で運搬)などを持ち、その他の器具・材料・糧秣は省略する。手袋を着用し、藁靴を履いた。

一、休止の間は手指をこすり、絶えず足踏みをすること。
一、体をできるだけ暖かく包み、放尿後は袴のボタンを確かめること。
一、飲酒は凍傷を招く。とくに凍傷の大きな原因であり、食後でも多量に飲むと凍傷にかかりやすいので、酒好きも慎むこと。
一、露営のときはできるだけ眠らないよう注意すること。
一、耳・鼻・足指その他全身の各部が寒さで凍りつかないよう注意すること。凍傷部位は(血色が戻って)赤くなるまでは、できるだけ火に近づけないこと。
一、凍結したときは、まず雪でこすり、次に徐々に暖め、いきなり湯に入れないこと。
一、靴下その他の湿ったものはできるだけ早く乾かし、(乾かすために)掛けておくことを怠らないこと。
寒地用の服を着て通路の開設にあたり、先頭小隊を踏雪隊として数十分から一時間ごとに交代させる計画であった。一月二十三日早朝、二列側面縦隊で営門を出発した。行軍順序は、伊藤小隊・中隊長・鈴木小隊・大橋小隊・水野小隊・中野特別小隊・行李縦隊の順であった。
はじめは森(青森)付近の冬の普通の天候に比べれば風も和らいでいた。しかし午前七時四十分頃から風雪と寒気がしだいに強まり、携帯した米飯はすでに凍りついて、食べられた者はごくわずかであった。傾斜が急で進みは一時間に半里(約二km)以下、最低気温は摂氏零下六度、雪も降った。幸畑村に達し、十一時半頃に小峠・大峠にかかり、正午に再び行進を始めた。雪はますます増し、午後四時半、中隊は馬立場以下〔十五名〕を設営隊とした。この日の予定地には到達しがたく、日も暮れかかったが、再び武装を整えて進もうとした。だが積雪は胸まで没し、到底進めず、按ノ森付近で露営しようとした。

風雪で視界がぼやけて混沌としてきたため、中隊はついにその場、鳴澤の南方高地の小さなくぼ地で露営すると決めた。だが露営地は風雪を遮るには足りなかった。ここに五つの雪壕(長さ五メートル・幅二メートル・深さ二・五メートル)を掘ったが、簡単なもので粗末にならざるを得ず、通路を開いて各隊を集合させ、午前二時三十分に露営地にあった。
二十四日、神成大尉・伊藤中尉が最先頭に立ち、進路を定めながら行軍した。しかし強風が怒号し、四方が真っ暗であったため、約三十分後には谿谷に落ち込み、はじめて道を失ったことを知った。そこで再び露営地に戻ろうとし、東北に道を求めて谷を下ると、駒込川の本流に出てしまい方向がわからなくなった。佐藤特務曹長が方向を変えて自ら案内役となったが、一歩も進めない。右に折れ左に折れと進路を変えたが、ついに進路を見つけることができず、午後六時頃、再び雪の上で露営した。
凍傷にかかる者がしだいに増え、山口少佐・與津大尉も手指をやられ、永井軍曹も手指を侵された。午後四時、水野中尉は従卒とともに終始救護にあたったが、ついに倒れた。中野中尉らも凍傷にかかった。

露営地は鳴澤の西南方の小さなくぼ地であったが、もはや前夜のように雪壕を掘る力もなく、わずかに踏み固めた雪の上に互いに体を密着させ、足踏みをし、手指をこすり合わせ、各小隊が軍歌を歌って夜を凌いだ。
馬立場の右方から(味方が来る)、今井特務曹長の一隊が左方から、ともに田茂木野の方向へ──「来る!」と絶叫した者があった。ちょうど一隊の兵員が通路を開設している最中で、合図の喇叭(らっぱ)を吹かせようとしたが、喇叭は唇に凍りつき、途切れ途切れに一、二声を発しただけであった。そのうえ、来ると見えたものはそれ以上進んでくる様子もない。午前十時、一同は驚き喜び、目を凝らして「我々に向かって行進してくる」と見た。ところがその「救援隊」は何の反応も示さない。さらに目を据えてじっと見つめると──ああ、それは無数の樹木の切株であった。倉石大尉はただちに前方を眺め、〔渡邊〕斥候長から「帰路を発見した」との報告を得て、正午にこの地を出発した。
斥候の一部はすでに田茂木野へ向かっており、従う者は約六十名。午後三時、馬立場に到って前進した。

ついに進路を見つけられない。二十六日午前三時頃、勇を奮い起こして再び出発した。従う者は三、四十名。昏睡して倒れる者が出た。山口少佐らも倒れた。
救援隊は三神定之助少尉を指揮に、下士卒六十名(看護手を含む)。一等軍医・村上英一が同行。各人に毛布一枚・精米五升・パン三十・懐中物などを携え、煙草若干、別に救急薬剤一組を持ち、午前五時四十分に屯営を出発した。小峠・大峠を越え、いったん田茂木野へ引き返し、再び大峠を越えて大瀧平を通過したところで、頭巾を深く被ったまま立っている一人の兵士を発見した。それが後藤〔房之助〕伍長であった。
幸畑で村民二十名を雇って案内役としたが、村民は前進は不可能だと言った。〔ある地点〕まで到ったところで村落に露営し、翌二十七日午前十一時頃、二、三百メートル進んだとき、両眼は開いているがすでに口がきけない状態の後藤房之助を見つけた。ただちに応急手当を施して蘇生させた。さらに進むと、突然、雪の中で視力を失う者も出たが、手当を施して蘇生させた。行軍隊の大部分はなお遥か後方におり、後藤伍長の西南約三百メートルに及川伍長、さらに神成大尉……と、相次いで(多くは遺体となって)発見されていった。

捜索は二月十八日に至るまで、非常な忍耐と精励をもって続けられ、遭難者の約四分の三の遺体を発見した(残りは雪解けを待つこととなった)。生存者・死者の数は別表のとおりである。
糒(ほしいい)六十四石八斗二升五合、缶詰類などの補充を受けてことごとくこれを充て、〔負傷者〕十四名のうち十名の重傷者は衛戍病院に収容した。患者は一日に八十六名もの多きに上った。これに伴う糧秣は一千二百貫余に及び、さらに師団経理部や弘前の救護班において患者を収容して治療を加え、包帯を施した。同月二十九日には慰労として両陛下からの御下賜があった。
時はちょうど極寒の候にあたり、積雪は股を没するほどで、風雪のただ中にあって、(連隊は)その特色を発揮し、名誉を揚げたものである──と本節は結ばれている。


出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/941896(参照 2026-06-30)。本書き起こし・現代語訳の収録範囲は第七節「八甲田の吹雪」(p.140〜151)。