赤丸を時系列アニメーションで追加していく演出。「この地図は58名がまだ山中に眠っていた時点で作成された」というナレーションと合わせる。
陸軍省の遭難報告本文は p.8(タブ5) と p.9(タブ6) に掲載されています。生死者名簿・収容状況・陸軍省の公式見解が記載されています。
原本は明治期の旧字体・縦書きで活版印刷。氏名の一部に当時の旧字・異体字が使われており現代表記と異なる場合がある。研究利用の際は青森県立郷土館・防衛省防衛研究所の原本閲覧を推奨する。
官報がこの時点で使った「行方不明」という表現は、「生存可能性がある」を意味しない。すでに死亡していることはほぼ確実であったが、遺体が雪の下にあって発見できていない状態を「行方不明」と表現した。この言葉の使用は、捜索費用・人員投入の継続を正当化するための行政的表現でもあった。
p.8で「遭難の経緯と生存者・初期死亡者」を記録し、p.9で「死亡確認者名簿の続き・捜索状況」を記録している。この2ページが合わさって、2月21日時点での官報による公式記録が完成する。最終的な全員収容の記録は同年6月6日号(第5651号)に掲載される。
| 官報発行日 | 遺体収容数(累計) | 行方不明数 | 記録の内容 |
|---|---|---|---|
| 2月21日(本資料) | 135 体 | 58 名 | 中間報告。救出17名・病院死5名。遭難地之図はこの時点で作成。 |
| 3月(続報) | 追加収容 | 42 名 | 春の雪解けが進み収容が加速。 |
| 5月(続報) | 36名追加 | 6 名 | 残り6名のみ。 |
| 6月6日(最終) | 全員収容完了 | 0 名 | 「玆ニ遭難者ノ全部ヲ発見セリ」(5月28日収容完了) |
| 発見日 | 氏名 | 階級 | 発見場所 | 最終状態 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1/27 | 後藤 房之助 | 伍長 | 大滝平(立木状態) | 生存 | 両手両足切断。1907年(明治40年)銅像除幕式に出席。 |
| 1/31 | 山口 鋠 | 少佐(大隊長) | 馬込川付近 | ★病院死(2/2) | 全身凍傷。死因に諸説あり(公式:心臓衰弱)。 |
| 1/31 | 三浦 友次郎 | 中尉 | 鳴沢 炭焼き小屋 | 生存 | 農民がうさぎ追い中に偶然発見。1/25以降の記憶なし。 |
| 1/31 | 阿部 文吾 | 伍長 | 鳴沢 炭焼き小屋 | 生存 | 三浦中尉と同じ小屋。周囲に16名の遺体。 |
| 1/31 | 山口グループ各員 | 下士官・兵 | 馬込川付近 | 9名発見→3名★病院死 | |
| 2/2 | 長谷川 | 下士官 | 奥崩れ小屋付近 | 生存 | 日清戦争経験。凍傷予防の知識あり。 |
| 2/2 | 伊藤 | 下士官 | 奥崩れ小屋付近 | 生存 | 日清戦争経験。凍傷知識あり。 |
| 2/2 | 倉石 大輔 | 下士官 | 奥崩れ小屋付近 | 生存 | ゴム長靴使用。唯一の「装備的生存」事例。 |
| 2/2 | 村松 友次 | 伍長 | 田代新湯付近 | 生存 | 最後の生存者。午後3時発見。 |
| 📍 | 遭難地之圖 | そうなんちのず |
| 🗺 | 搜索線之圖 | そうさくせんのず |
| 🏠 | 喝所 | かっしょ(休憩・指揮所) |
| 📝 | 考備 | こうび(注記・備考欄) |
| 📅 | 全壱日〜 | 1月1〜31日(グラフ横軸) |
| 📅 | 明治三十五年 | 西暦1902年(遭難当年) |
| ⚠️ | 死ニ至リタル | 死亡した(官報の死亡者表題) |
| ⚠️ | 玆ニ | ここに(文語表現) |
| ✅ | 全部ヲ発見セリ | 全員を発見した(最終報告表現) |